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2018年10月30日 (火)

神の道

山登りは楽しい。
だけど、そこにも”苦”はある。

先日登った浮嶽はほんとに大変で(まだUPしてない)。
ふと、何でこんな大変なのに登ってるんだろうと思った。

それをその夜に行ったパート先で友達に話した。
「まるであれみたいやね。山に登って修行する人」
「行者さん?」
「ほら、頭にこんなんつけて」
と、指で額に小さな輪をつくる。
「それは・・・山伏かぁ」
                .

山伏や修験者のあの額に付ける箱(頭巾)は、
ユダヤ教徒の方が祈りの際に頭につける(ヒラクティリー)にそっくりだという。

ヒラクティリーは、旧約聖書の言葉を収めた小箱。
常にそこに神を感じる為なのだと思う。

頭巾は、大日如来を表わすそうで。

もしも、ユダヤ教の元、古代ヘブライと日本が繋がっているならば、
無関係ではないでしょう。
修験者や山伏にとって、山は祈りの場所なんだ。


ずっと前に、山伏って何を思いながら山に登ってるんだと思ったことがある。
それは「何で山に登るの?」
と、山に登ったことが無い人が、登る人に感じる疑問と同じ。

登らなければ分からない。

木に草に虫に、そこに在る目に映る全てに。
お日様に照らされた輝く大地に。
すべてに神を感じる。

そこで出会う人の中に。
自分の中に。
山中で神に出会う。
全ての中にある神に。

神は全ての中にある。

そこに思い至る。

世の中に在る全ての中にそれがある。
それを、受け取るか、受け取らないか。

神の道は、「この世に生きている」その全てにある。


「神の道」
神道には教義が無いという。
その必要が無いからだ。

                  .

高みからでは決して見えないその先。

そういえば、ARIONは地を這って生きよと言った。
泥にまみれなければ見えない。
お釈迦様が乗られる蓮の花は泥の中でしか咲かない。

泥を選んでいるのも、きっと自分。
その泥の中を楽しむのも、自分。

苦の中の楽も、楽の中の苦も。
ほんとはすべては同じ物。
                     .

人それぞれの一生の時間は、生まれた時から決まっているという。
どうせなら楽しんだ方が、楽しい。

楽しみながら受け取れる全てを受け取る。
それが人生を謳歌すること。


               .

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コメント

「今晩は」
山登りなとで酸欠状態になるのだが?
空気が綺麗だとスピリチュアルに導かれる。
粗食で栄養失調状態になっても導かれる。
息継ぎが下手な長時間の読経でも導かれる。
一生懸命さが、スピリチュアルに導かれる。
人のため、社会のため、清らかな修行のため。
これらの努力は 体験とし無駄にならない。
導くも者が居るか?自燈明で のりきるか?
居れば覚者、居なければ ただの修行者?
導く者は 見えません、神仏や天に お任せ?
信じなければ ただの欲ばり、見返りは求めない。

人生は楽しんだほうがいいですね。
(出来る範囲で)
山に登ってるとき、なんでこんなに難儀して
登ってるんだろう?って思いますが、
登頂すると、す~っと消えてしまいます。
最短で目標達成できるからでしょうか。
これからも、登りたいと思っています。

本当に何で登るんでしょうね?
初めての山だと、それまでに見た事が無い景色を見られる喜びがあります。
登る苦しみは、達成感、満足感となって報われます。
が、私は下山が苦手なので、下山の苦しみ(膝の痛み)は正直何も報われない気がします。
修行登山が続く人は、心身とも鍛え上げられているのでしょう。
私は最近は苦しい山からは逃げてます。単に良い景色が見たいだけになってます。
それでも楽しんでますよ。(^^)v

アットマンさん、コメントありがとうございます^^

体が満たされない時と満たされる時、ある種のホルモンが出て、
恍惚状態になるそうですが、登山や瞑想中もそうなのかもしれません。

導く者は常に必要なのではなく、
多分、たった一言でもよいのかもと思いますconfident
”それ”が人ではなくても何物でも、
自分が見つけたものでも。


その時に、腑に落ちた言葉は、きっとその人自身が初めから持っていたもの。
答えはすべて自分の中にあるもの。

腑に落ちた瞬間、それを「理解する」のだと思いますconfident

もしかすると、「覚醒」とは素の自分に近づくことなのかもしれないと
思うのですconfident

aoiさん、コメントありがとうございます^^

普段、登ってる時はあまり思わないんですけどねぇ^^;
あまりにも滑ったり、難儀したからかもしれません。
それでも登り切ったり、頂上で景色見れたり、
普段見られない光景を見られたら、嬉しくてたまりませんねぇ^^

友達があの後、前世が山伏だったんじゃない?
と言ってました。
前の世でもそうとう山が好きで、
今も好きで、登れたりするなら、本望ですねぇconfident

ハルさん、コメントありがとうございます^^

私もあまり膝が丈夫ではないので、足が痛くならない程度の
低登山ばかりです。
多少、間にちょっと大変でも、最後に楽しいと思えるくらいでないと
続かないですよねconfident

体にも心にもいい景色をいっぱい見たいですね(*^^*)

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