ブログ村に参加してます!ぽちっとお願いします

*このブログについて

  • amebloにもサイトがあります。 そちらに載せる時に加筆したもの(後に分かったこと)を、改訂版として再びこちらへUPしている記事もあります。
2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

amebloリンク

無料ブログはココログ

☆ブログからの引用などについて☆

  • このブログの考察、写真、イラスト、考察などは、管理人に著作権があります。無断転載は御遠慮ください。

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月30日 (木)

卑弥呼と神功皇后

これはとても荒唐無稽な話。
でも、私の中であった体験です。

   *追記 「神功皇后と卑弥呼」 ようやく繋がりました。(2020/04/18)
      (「「古代史の謎」 8 ~邪馬台国~」)

前世の仲間という子達から、自分の前世の名が「卑弥果」だと聞かされた時、
すんなり納得していました。(前世の仲間 ~前世 3~) 
荒唐無稽の話だったのですが、あっさりと受け入れていました。

私自身にとって、「卑弥呼」という名に心当たりがあったのです。
古代の奈良でも、「ヒミカ」と呼ばれていました。

                          *

「卑弥呼」

その名を始めて聞いたのは、ご多分にもれず小学校の社会の時間。

その瞬間、懐かしさが全身からあふれてきました。
とめどもなくあふれてきて、懐かしくて懐かしくて、授業中なのにはらはらと涙しました。

(なんで?)
わけも分からずに泣いていました。
(昔の人だからこんなにも懐かしく思うのかな)と。

その時、懐かしさと同時に浮かんだ風景があったのです。

<雨にけむるご陵さん>でした。

それは奈良県奈良市山陵(みささぎ)町にある、神功皇后陵です。
その風景は、私が奈良に引っ越してきた日、トラックの助手席から
初めて見たご陵さんの姿でした。
なぜその時に見えたのかは、未だに分かりません。

変な言い方ですが、神功皇后陵は、私にとっては友であり、母でした。
お堀の土手に座って、夕暮れまで過ごすこともありました。
友達とその林で遊んだり、一人で散策したり。
辛い時、ご陵さんの気配が優しく包んでくれました。

確かに心を感じていたのです。

                         *    


神功皇后陵は、天皇・皇后陵だとして、宮内庁の管轄であり、
守衛さんが常駐していました。

神功皇后陵は昔から、「祟る」陵で有名だったそうです。
盗掘する者に災いがあり、盗掘品を返したという話も聞きました。

そのご陵さんの側に行った時、他の陵にはない特別なものを感じていたように
思います。

授業中に感じた、卑弥呼の名への懐かしさと、
卑弥呼かもしれないと言われていた神功皇后を、毎日肌で感じていたのです。

だから、その名をすんなりと受け入れていたのだと思います。

                          *                     

そして北海道へと引越しする日。
荷物をぜんぶ出した後のがらんとした部屋で私は、そのご陵さんに向かって・・・

叩頭していました。
頭を床につけ、深くお辞儀をしていたのです。

(なんで、私こんなことしているの?あぁ・・・)
後から意識がついてきました。

ありがとう。


福岡に引っ越した先でも、神功皇后の足跡に出会いました。
裂田の溝(うなで)」と「現人神社」です。

*(追記。実母の故郷、祖母の家が福岡「飯塚」で神功皇后と係わりのあった土地だった。
  「富士山の夢」の記事)


卑弥呼と神功皇后。


時代が離れているはずなのに、私にとっては切っても切れない二人。

安徳台と裂田神社の間から見た、「白鷺が舞う黄金色の田んぼ」を見た時の気持ち。

<私は前にもここへ来たことがある。この風景を願っていた>
それは神功皇后のもの?

架空の人かもしれないのにあちこちに伝承がある。
一体、神功皇后って何者なのだろう。
私と関係あるのだろうか。

                            *

もう一つ、気になるのは「ニギハヤヒ」です。
古代奈良の夢で、アマノトリフネを見ました。
前世と石切劔箭神社と矢田坐久志玉比古神社

記紀では、アマノトリフネに乗って地上にやってくるのは「ニギハヤヒ」だと
しています。

あの夢が前世だとしたら、仲間の一人が「ニギハヤヒ」だということになります。
彼は「リュウ」と呼ばれていました。


御伽噺。夢物語。

いつか真相が分かる時が来るのでしょうか。

 

(追記)

 

この記事を書いたずっと後になって分かったのですが、
私が奈良で住んでいたこのご陵さんの側は、
昔はトミと言われていたそうです。

今でも登美ヶ丘という地名はあるのですが、この辺りまでとは
知りませんでした。

「トミ」とは、、ニギハヤヒ命とミカシヤ姫が居を構えたという地名。
ミカシヤ姫のまたの名を、登美夜須毘売(トミヤスビメ)

トミはもともとは彼女の一族の名前でした。

その場所に、神功皇后のご陵さんがあることは、
偶然ではないのでしょう。

それを知った時、ようやくあの「最後の日」の自分の行動が
腑に落ちたのです。

 

私は守られていたことに、感謝していたのだと。

 

2014年1月29日 (水)

今年のインフルエンザ

上の子(小6)がインフルエンザになりました。

今年のインフルエンザは、前触れもあまりなく、あっと言う間に広まるらしいのです。
(地域により違うかもしれません。当方、福岡)
先週の週末、まだ周囲からインフルの声を聞くことも無かったのです。



子供が熱を出したのが、日曜の朝。
38.3℃でした。
「あちこち痛い」
と言ってましたが、熱もあまり無いので、とりあえず家にある風邪の常備薬を
飲ませました。
インフルエンザを疑いましたが、熱が出てから6時間以上経たないと、
検査の結果が出ないので安静にさせました。

夜になって、37.6℃。
「あぁ、インフルエンザじゃないかもね」
でも、明日、一日大事をとって学校は休みね、と。
念の為、「麻黄湯」を飲ませて寝かしました。

次の朝、37.1℃。
下がったから風邪やね。病院へは行かなくて、そのまま寝てなさいねと。
昼過ぎ、下の子の幼稚園へお迎えに行きました。
そこで、ママ達からこんな話を聞きました。

「今年のインフルは、熱があまり上がらないらしいよ。
で、一旦ぐっと下がって平熱近くになるから、風邪だなと思って学校に行かせちゃう。
と、また上がり始めて、あわてて病院へ行って、インフルだった!って。
だから一気に広まるんだって」

げっ!
「うちの子、そのパターンかも!今日、病院へ行って検査してくるわ」

帰宅して子供を連れて病院へ。
インフルA型でした。

話を聞いてよかった

今年のインフルはA型とB型が両方、同時に流行っているそうです。
親子で型が違う人もいるとか。

検査でも結果が出にくいらしく、熱が出て6時間経った頃に陰性だったのが、
丸一日以上経ってから陽性反応が出た人もいるとも聞きました。


                       *

その日、学校では一クラスに20人近くインフルで休んでるとこもあって、
上の子のクラスも、かなりの人数がお休みだったそうです。
今週に入って、周辺の学校も学級閉鎖や学年閉鎖になりました。


ここらへんは、医療費が無料なのが未就学児未満なので、小学生ともなると
お金がかかるのです。
インフルだったら、診察、検査、薬で4000円くらい。
気軽に病院で検査とも行かず、二の足を踏む人が多いようで(私も含む)。

でもこの時期、熱が出たら大事をとって余計に休ませたり、病院へ行ってちゃんと検査を
しないといけないですね。
(微熱程度だったのに、インフルだった子もいるらしいです)

病院に行った時、ついでに「麻黄湯」のことも聞いてみました。
病院から出る薬と同時に飲んでも全く問題ないそうです。
「麻黄湯はね~インフルに効くからね~一緒に飲んでも大丈夫だよ~」とのこと。
(*念の為、担当の病院の先生に確認してください)

漢方薬なので独特の苦い味がするのですが、
温めたミルクでココアを作って、その中に混ぜると飲みやすくなります。

予防にもなるので、うちでは誰かがインフルになると、他の家族もみんな飲みます。


皆様、ご自愛ください~

2014年1月27日 (月)

「箸墓の歌」と”くしふるたけ”  その2

前回の記事<「箸墓の歌」と・・・>の続きです。


<<背振山>>


その山は、福岡県の南に壁のように連なる山の一つです。
山の北の麓には、那珂川町が広がっています。

ちなみに、その山を越えた南は、佐賀県。
あの、一時期、邪馬台国ではないかと言われていた「吉野ヶ里」です。
(時代が、こちらの方が古いそうです)

那珂川町と吉野ヶ里は、山を隔てた場所にあります。

                    *

「箸墓の歌」の著者は、背振山のことをこう記しています。

「背振山には、背振神社があり、祭神は宗像三女神だが、地元では
乙護さんと言われている」(要約)
(著者は、乙護さんは、「トヨウケ姫」だとしています)


「「背振神社蔵古書によると、絶頂に霊窟があり、二竜常に出現し背を振る時、
山が動き地震う、故に背振山と号する」」(「箸墓の歌」より抜粋)

背振山には古くから二竜が祀られていて、著者はその二竜が
「スサノオ」と「ニギハヤヒ」ではないかとしています。

背振山に斎場を建てたのは、神功皇后であると伝えられていて、
二竜と宗像三神を祀った時、乙護さん(トヨウケ姫)も祀ったとしています。


ニギハヤヒを住吉三神ではないかとしている著者は、
神功皇后が那珂川町を訪れたのは、
「現人神社」(住吉三神の総本宮)があるからだと。

ここでも、<<ニギハヤヒ>>

                         *

ニギハヤヒ・・・背振山・・・くしふるたけ・・・

そういえば、生駒山からアマノトリフネに乗ってやってくるのはニギハヤヒだという。
背振山に降り立った神というのもニギハヤヒかも・・・と。


ニギハヤヒの別名は
”天照国照彦天火明櫛玉饒速日命”


「くしふるたけ・・・くし・・・」

                    *


奇魂(くしみたま)のくし。

しふるたけ・・・それは、<奇振岳(くしふるたけ)>のことなのかもしれません。


<<奇(くし)>>には、人間に不思議な奇跡をもたらすもの、
神の力を感じられるものという意味があると思います。

二竜が降臨したと言われる背振山に<奇(くし)>の力を感じ、
<<くしふるたけ>>と言うようになったのではないかと・・・思ったのです。


<筑紫の日向の高千穂のくしふるたけ(奇振岳)>

2014年1月26日 (日)

「箸墓の歌」 と・・・ その1

「箸墓の歌」 小椋一葉 著

この本に出会ったのは、図書館でした。
私が本に出会うときは、大抵、直感です。

本棚の中の「これ」と思ったものを手にして・・・
<私が読むべきところ>と思いながら、本を開くと、
「そこ」のページに自分に今、必要な言葉などが書かれてあることが多いのです。

そうして、この本を手にして開いたページに「現人神社」が書かれてありました。
それで興味をかき立てられて、読んでみることにしたのです。

この本はシリーズ本だそうですが、前作は読んでいません。

                   *

この「箸墓の歌」の主人公は、邪馬台国の女王「台与」。

箸墓に眠っているのは、卑弥呼の宗女「台与」だとし、
その台与は”トヨウケ姫”だとしています。

その姫の辿った道を、西日本の各地にある神社や土地の伝承などから、
解き明かしていきます。

その”トヨウケ姫”は、那珂川町にも訪れたとありました。

福岡の端の那珂川町にある小さな神社「現人神社」。
私はこちらに来るまで、存在も知りませんでした。
その神社のことや町の伝承を丹念に調べてあって、とても感心しました。

多少、強引な展開だなと思うところはあるものの、
神社や土地の伝承に興味があるというだけの人でも十分に楽しめます。

前作も読みたいと思いましたが、絶版のようでした。
古本屋に出るのを気長に待ちます。

なお、こちらも絶版でしたが、今回ネットで中古本を購入しました。


                 *

実はこの本、一週間ほど前から図書館から借りていたのです。
過去に、何度も借りています。

前回の宗像の記事の後、コメントをもらって、この本をお薦めしたのですが、
その時にもう一度、ページをめくりました。

と、「背振山」のことが書かれてあるところに目が留まったのです。



この話、続きます。

2014年1月25日 (土)

石の話

私は石が好きです。
パワーストーン、半貴石と言われているものです。
あまりお金をかけないで、少しずつ集めています。

二つの緑の勾玉は翡翠。

Dsc_1000_3


下の勾玉は、博物館のお土産コーナーで一目ぼれしたもの。
多分、インドあたりのものだと思います。

もう一つは、最近購入したものです。
翡翠の産地、新潟県の糸魚川のもの。

深い緑の勾玉は、「青石」
出雲地方の石だそうです。


ビーズは、普段身に付けているブレスをばらしたもの。
使用しているゴム糸が時とともに劣化するので、時々ばらして組み直してます。

分かりにくいのですが、上の真ん中の紫色のは、「スギライト」
日本で最初に発見された石で、発見者の師の杉先生にちなんだ名の石。
三大ヒーリングストーンと言われているそうです。

その左、緑と青が混ざっているものは、「アズライト」

大きなハートの石は、「ラブラドライト」
宇宙と前世に繋がる石。
最近できた友人と行った石屋さんで、大きめなのを手に入れました。
ラブラは、まるで蝶の羽のように角度によって様々な輝きを放つのです。
ハートの形はどうかなと思っていましたが、
手に取ってみるとすごくなじみやすいのです。


真ん中ほどの深い緑で白いスジが入っているタンブルは、「セラフィナイト」
天使「セラフィム」の名がついている石。
その天使の羽のような模様を始めて見た時、鳥肌が立ちました。

以上は、小さいビーズにもあって、普段はブレスで持っています。

その他、楕円のカットが入っているものは、「グリーンアベンチュリン」

透明なのが、「水晶」です。

私は、緑が好きなようです。

石屋さんで気に入ったビーズ(小さい丸玉)を見つけた時、
1個~数個、今あるブレスに組み込んでいくのです。
ようやく最近、「これでいい」と思えてきました。

たくさんの石の寄せ集めは嫌だと思っていたのですが、
すっかりなじんでいるような感じがします。

ある石屋の店員さんは、
「始めばらばらだったけど、今は持ち主の一つの望みのために高めあってる」と。

集まるべくして集まったのだと思えてきました。

Dsc_1626
       
             (ブレスUPしました)


ブレスの縁で友人ができたのです。
数ヶ月前に勤め始めたパート先で、ブレスをしてきた彼女。
(同じ日に入った一人)
「パワーストーン好きなんだ?」
という会話から、すっかり意気投合。
ラブラも彼女と一緒に買いに行きました。

石のパワーを受け取れて・・・人の見えないものも見える人。

お互い、あやしい会話を普通に言える。
その”他の人に言えない”感覚を共感しあえる人。

今までこういうことに関して我慢してるわけではなかったけど、
誰かと分かり合えるのはこんなにも心地よかったのかと思ったのです。

2014年1月22日 (水)

再び、宗像大社 福岡県

先日、宗像大社へ行きました。

雰囲気が、福岡では一番、伊勢や奈良の神社に近くて、
たまにどうしても行きたくなるのです。
でも、結構遠いので一人では行けず・・・。


その日、お昼頃になってダンナが、「宗像大社にお参りに行こう」と。
「突然?もうこんな時間だし、明日でもいいよ」と言うと、
「今日、行きたい気がする」と。
「じゃぁ、今日、行くことになってるんだね」ということで、出発。

大社は、まだまだ新年参りの雰囲気がありました。

神門をくぐる前に「福みくじ」を発見。
一回500円で空クジなし。
一等は「ルンバ」
二等は「ドルチェ」(コーヒーを自動でいれてくれる)

最後の方でも根付やらあって良かったので、早速引いてみることに。

まずは、下の子2人で一回。
21等で「熊手」が当たりました。
Dsc_0969

お次は最近あまり運がよくないダンナ。
試しに引くことに。
おおっ!9等??

引き換えの場所にくじ持って行くと、
「ドンドン」と太鼓を鳴らしてくださいました。

当たったのは「張子の午(大)」

Dsc_0972

一緒に入っていた紙に、こんなことが書いてありました。

俗説では、角が出ているから「牛」で、
角が無いから「午」なのだそう。
そう言われてみれば!!

「午」は何事も「うまく 行く」とされている縁起の良い干支だそうで、
今年は運が良くなってくるのかな~と期待。


大社は修繕中で幕が被さっていました。
隣に仮の宮が設置されてました。

参拝の後、高宮へ。

Dsc_0958

ここへ来る途中に、宗像の町を見下ろせる場所があるのです。
〇〇ちゃんは、この地方に引っ越すのか。
そう思うと、じわっと涙が。

福岡へ来て・・・人生で一番の友達が、次の春に引っ越してしまうのです。
彼女には彼女のしがらみがあって、どうしても・・・。

私が、大社が好きなことを知っている彼女。
「何度でもおいで。泊まってもいいよ。〇〇ちゃんとはこれから先、
ずーっと付き合うことになると思うから」と。
「行くよ。目を瞑っても行けるくらい覚えて、何度でも行くよ」
そう、泣きながら話したのは、つい先日の話。

宗像大社には、これから何度も来ることになりそうです。

お社は見られなかったのですが、駐車場の前にある祈願殿(休憩所を兼ねてある)
の2階にこんなのが。

Dsc_0965

Dsc_0966

他に著名なイラストレーターさんや漫画家さんが書かれた絵馬もあって、
楽しめました。

その夜。
一本の電話が。
<夜中の電話は怖い。人の死に関わることが多いから>
と常日頃言っているダンナ。

案の定、東京にいる、お義母さん方のおじさんが亡くなったと。
「やっぱり、今日、宗像に行ったのは、こういうことだったのか」と。

おばさまの時は、熊野に旅行中でした。

黄泉への道を明るく照らしてくださいますように。
迷い無くたどり着けますように・・・。

2014年1月21日 (火)

ほうげんきょう

少し前の話になりますが(随分前)、松の内も明けない頃、
ほうげんきょうがありました。

「ほうげんきょう」とは、この地方の「どんと焼き」のことです。
どういう意味なのか、どういう漢字を書くのか分かりません。

今回、初めての参加で子供達と行きました。
知り合いのママ友が準備をする当番だったので、誘われたのです。


住宅街の公園に、竹のやぐらを組んで、その中に正月飾りを入れます。
10時、点火。

まもなく火柱が上がりました。
「どんっ、どんっ」
と、爆発するような大音響が聞こえてきました。

竹を燃やすと、筒の中の空気が膨張して破裂するのだそうです。

どんっ、どんっ。

大きな音は空気を震わせ、辺りに響き渡ります。

遠く空にも届いているかのよう。


と・・・。
あぁ、この音もいいんだな。と、ふと思いました。

おそらく、よくないもの・・・魔を祓う意味もあるのだと思うのです。


火の勢いが増す頃、ぜんざいが振舞われました。
子供達は外で食べるぜんざいに大喜び。
お菓子ももらってご機嫌でした。

大人は・・・お神酒です。
「どうぞ!飲んでって!」
と渡された竹のお猪口の中には、お酒!いや、お神酒!
熱燗でした。
ほんのり竹の香りがして、おいしいこと!

ながーい竹の中にお酒を入れ、火にくべて温めていました。
4,5杯・・・7,8杯?
ぐいぐい飲んでたら、おじさんが話しかけてきました。
よく聞いたら、3軒隣の方でした。
「これからもよろしくお願いします~」とご挨拶。

こんな時にお酒が飲めると得だな~と思うことが多々あります。
知らない人同士、話が弾むのは確か。

何杯飲んだか分からない頃、やぐらもすっかり燃え尽きていました。
最後の締めは、火の中にくべていたさつまいも!
格別!

やぐらの灰は、公園の隅に穴を掘り、そこに埋めていました。
合理的!

うちに帰ると、腰痛で臥せっているダンナが、
「日本酒一合のアルコールが抜けるには、4時間かかるって言うぞ」と。
夜は仕事。
「2合も飲んでないと思うから大丈夫だよ」と。

幸い、どんなに飲んでも二日酔いをしたことが無く、逆に頭がすっきりするので、
お酒は体質に合っている模様。

ちょっと寝たら、すっかり酔いも醒めました。


ここら辺は、古くからある、地区の行事がたくさんあって、
しかも「来るもの拒まず」な雰囲気があるので、とても居心地がいいのです。

2014年1月11日 (土)

全は一つ

<<全は一つ>>


それは、玉置神社のある玉置山で聞いた言葉です。

上空にいて、藍の宇宙と、地上を見せられた後、聞こえたのでした。



<全は一つ>

その言葉を聞いたのはその時が初めてでしたが、
”その時”思い当たることがありました。

私は小学生の頃、あることがあって、いつも死ぬことばかりを考えていました。

多分、いつもではなかったのでしょうが、他のことがあまり思い出されないのです。


でも、その後、奈良の優しい気に包まれた後に、いつも思うのです。

私がいなくなってしまったら、
(飼っていた犬の)〇〇は悲しむのかなとか、
(友達の)〇〇ちゃんは、一緒に学校に行けなくなってしまうなとか、
このまま山に入ってしまったら、みんな探し回って大変になるんだろうなとか、
〇〇してしまったら、あの人達が困るだろうなとか。


そんなことを次から次へと考えるのです。

ある時、ふと気がつきました。



そうか、私は本当は生きたいのだ。
だから、何かとつながりを求める。

何かとつながりがあることを確認する。
だから、ここにまだ、いないといけない理由を探すのだ。



私は一人で生きてはいない。
・・・人は生きているだけで、何かに関わっている。

この体だってそうだ。
何かを食べ、それが私になっていった。

生きているだけで、何かと繋がっている。
きっと、生きているだけで、意味がある。

と。


この時、

自分と周りの全てが重なってく・・・
一つになっていく感覚がしたのです。

”私の中に全てがあり、全てのものは私に繋がっている”・・・。



玉置山の上でその声を聞いた時、それを思い出したのです。


あぁ、”これ”は、初めてではない。



<<全は一つ>>


そのずっと後になって、アニメの「鋼の錬金術師」の中で、

「”全は、一。一は、全”とは何か」と主人公達に問いを出す場面を見ました。

小島でのサバイバルの末、幼い兄弟はたどり着きます。

自分も食物連鎖の中にいる。
食べたものが自分の中で再構築され、自分になっていく。
自分が死んでも、土に還り、何かの中で再構築される。

錬金術もそれと同じ。
全ては円を描き、廻っている・・・。

「全は世界。一は俺」

それが兄弟の出した答え。



それは、きっとこの世の真理の一つ。


あぁ・・・。

その時あらためて思いました。

私は玉置山で真理を見せられたのだ・・・と。

2014年1月 6日 (月)

安徳台と高天原

安徳台が神話の「高天原」であり、「底津岩根」である。

 

安徳台は、福岡県筑紫郡那珂川市にある広大な台地。

(以前の記事 
安徳台(迹驚岡とどろきのおか) ・安徳台(迹驚岡・とどろきのおか) その2 

神功皇后が朝鮮出兵の際、船の舳先に現れ、皇后を助けた神として、「住吉三神」の名が出てくる。
この時、

「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若々しく生命に満ちている神、
名は表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのおとこ)
(住吉三神)の神」とある。

 

*************************************************************************

(今までの記事と重なるが)

那珂川町仲(ちゅう)には、「現人(あらひと)神社」があり、住吉三神を祭った最初の神社。

神功皇后は、件の神託により、この神社の神田に水を引くために、裂田溝(さくたのうなで)を指揮して作った。

ところが大岩があり、行く手を立ち塞ぐ。
神功皇后が神に祈ると雷がとどろき、大岩がくだけました。

その場所が「裂田神社」のある場所。
この時、「雷がとどろいた」ので、その側にある丘を「迹驚岡(とどろきのおか)」と名づけたそう。

その丘が現在「安徳台」と呼ばれている、広大な台地。

台地には、紀元前からの遺跡が数多く出土している。

***************************************************************************


「住吉三神」が最初に祭られたという「現人神社」。

その場所こそ、神話の「イザナギが禊をして住吉三神が現れた場所」。

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原。

その名がここに全てあった。



那珂川町の郷土研究家の方に篠原正之氏がおられます。
著書に「邪馬台国位置論」があります。

その本から要約です。
                          *


  安徳台の側、那珂川を挟んだ西隈という場所に昔、橘という地名がある。
  後に立花木になった。

  小門とは、山と山が狭まった地形。
  那珂川の下流から遡ってきて、最初の「小門」がちょうどその辺り。

 

  そして、阿波岐原。
    「はぎ」か「おぎ」の生えている原という意味。

  安徳台の側に「萩原」と表記して、おぎわらと呼ばれる場所がある。

                       *

(*追記 これらの地名が、安徳台の西の那珂川に沿って、1キロ以内にある。
下流の方から、立花木、小門、おぎわら、となる。)

<おぎわら橋>という名の橋は今もある。
 萩原と書くならば、普通は「はぎわら」と呼ぶ。

神功皇后がその辺りの那珂川で禊をしたという言い伝えもある。

その少し上流には「岩戸」という地名。
この一帯は、岩戸村と呼ばれていた。

 

那珂川町には日吉神社もあり、猿田彦神が祀られている。
天孫を導いたと言われる神様。


                               *

 

安徳台は、はるかな昔から特別な場所。
古代のシャーマン達が祈りを捧げる神聖な場所だったそう。
(出土した遺跡より)


でも、掘り返されたりして欲しくない。
謎は謎のままに。

 

台地から天へと繋ぐ、光の柱。


時々、見られるその光景を、そっと眺めるのが好きなのだ。

 

 

 

 

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »