卑弥呼と神功皇后
これはとても荒唐無稽な話。
でも、私の中であった体験です。
*追記 「神功皇后と卑弥呼」 ようやく繋がりました。(2020/04/18)
(「「古代史の謎」 8 ~邪馬台国~」)
前世の仲間という子達から、自分の前世の名が「卑弥果」だと聞かされた時、
すんなり納得していました。(前世の仲間 ~前世 3~)
荒唐無稽の話だったのですが、あっさりと受け入れていました。
私自身にとって、「卑弥呼」という名に心当たりがあったのです。
古代の奈良でも、「ヒミカ」と呼ばれていました。
*
「卑弥呼」
その名を始めて聞いたのは、ご多分にもれず小学校の社会の時間。
その瞬間、懐かしさが全身からあふれてきました。
とめどもなくあふれてきて、懐かしくて懐かしくて、授業中なのにはらはらと涙しました。
(なんで?)
わけも分からずに泣いていました。
(昔の人だからこんなにも懐かしく思うのかな)と。
その時、懐かしさと同時に浮かんだ風景があったのです。
<雨にけむるご陵さん>でした。
それは奈良県奈良市山陵(みささぎ)町にある、神功皇后陵です。
その風景は、私が奈良に引っ越してきた日、トラックの助手席から
初めて見たご陵さんの姿でした。
なぜその時に見えたのかは、未だに分かりません。
変な言い方ですが、神功皇后陵は、私にとっては友であり、母でした。
お堀の土手に座って、夕暮れまで過ごすこともありました。
友達とその林で遊んだり、一人で散策したり。
辛い時、ご陵さんの気配が優しく包んでくれました。
確かに心を感じていたのです。
*
神功皇后陵は、天皇・皇后陵だとして、宮内庁の管轄であり、
守衛さんが常駐していました。
神功皇后陵は昔から、「祟る」陵で有名だったそうです。
盗掘する者に災いがあり、盗掘品を返したという話も聞きました。
そのご陵さんの側に行った時、他の陵にはない特別なものを感じていたように
思います。
授業中に感じた、卑弥呼の名への懐かしさと、
卑弥呼かもしれないと言われていた神功皇后を、毎日肌で感じていたのです。
だから、その名をすんなりと受け入れていたのだと思います。
*
そして北海道へと引越しする日。
荷物をぜんぶ出した後のがらんとした部屋で私は、そのご陵さんに向かって・・・
叩頭していました。
頭を床につけ、深くお辞儀をしていたのです。
(なんで、私こんなことしているの?あぁ・・・)
後から意識がついてきました。
ありがとう。
福岡に引っ越した先でも、神功皇后の足跡に出会いました。
「裂田の溝(うなで)」と「現人神社」です。
*(追記。実母の故郷、祖母の家が福岡「飯塚」で神功皇后と係わりのあった土地だった。
「富士山の夢」の記事)
卑弥呼と神功皇后。
時代が離れているはずなのに、私にとっては切っても切れない二人。
安徳台と裂田神社の間から見た、「白鷺が舞う黄金色の田んぼ」を見た時の気持ち。
<私は前にもここへ来たことがある。この風景を願っていた>
それは神功皇后のもの?
架空の人かもしれないのにあちこちに伝承がある。
一体、神功皇后って何者なのだろう。
私と関係あるのだろうか。
*
もう一つ、気になるのは「ニギハヤヒ」です。
古代奈良の夢で、アマノトリフネを見ました。
(前世と石切劔箭神社と矢田坐久志玉比古神社)
記紀では、アマノトリフネに乗って地上にやってくるのは「ニギハヤヒ」だと
しています。
あの夢が前世だとしたら、仲間の一人が「ニギハヤヒ」だということになります。
彼は「リュウ」と呼ばれていました。
御伽噺。夢物語。
いつか真相が分かる時が来るのでしょうか。
(追記)
この記事を書いたずっと後になって分かったのですが、
私が奈良で住んでいたこのご陵さんの側は、
昔はトミと言われていたそうです。
今でも登美ヶ丘という地名はあるのですが、この辺りまでとは
知りませんでした。
「トミ」とは、、ニギハヤヒ命とミカシヤ姫が居を構えたという地名。
ミカシヤ姫のまたの名を、登美夜須毘売(トミヤスビメ)
トミはもともとは彼女の一族の名前でした。
その場所に、神功皇后のご陵さんがあることは、
偶然ではないのでしょう。
それを知った時、ようやくあの「最後の日」の自分の行動が
腑に落ちたのです。
私は守られていたことに、感謝していたのだと。
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