飯盛山。
福岡の飯盛山には、イザナミノミコトを祀る飯盛神社がある。
飯盛山自体も、神聖な山だとされている。
その「飯盛神社 中宮社~」の記事に辰まるさんがコメントをしてくださった。
「西日本にある飯盛山と呼ばれている山の配置に意味があるようで、
巨大な円と三角の幾何学的な関係で互いに結ばれ主に西日本地域に展開して、
その起点が、福岡の飯盛山かもしれない(要約ですみません)」と。
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この点在する山の位置が、三角や幾何学模様になっている場所の一つとしてすぐに思い当たるのは、奈良の大和三山。
その中心地に立った時、そこが特別な地であることがひしひしと伝わってくる。
今、そこには「藤原京跡」があり、何もない広場があるだけだが。
それよりももっと前、そこに何かがあったはず。
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ただ、そこに山があるだけでは、そのような「場」は生まれない。
大和三山には、それぞれ麓などに神社が存在。
神社(祈りの場)には、神が宿る。
祈りの場に人が集まり、一定の方向に祈りを捧げると、そこに「場」が生まれ、神が宿るのだ。
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<神は、人の祈りにより存在するもの。人の祈りがなければ、
この世に存在し続けることなし。
長い時を越えて、たくさんの人が祈り続けた証が、今の神の姿>
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愛知の熱田神宮を参拝した時、聞こえた言葉。
(聞かせた?者が神かどうかは分かりませんが。)
祈りの方向さえ同じであれば、神は宿る。
「大物主を家に祀りたい」と思い、人が祈りを捧げれば、そこに神は宿るのだ。
それほど、人の祈りの強さは大きく、尊い。
神を創っているのは、人なのだ。
(それさえも、もしかしたら神の意思かもしれませんが)
また、三山の北、耳成山は人工の山だという説を聞いたことがある。
そうだとすれば、この「場」を形成する為に造られたのかもしれない。
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「西日本に点在する飯盛山」
その全ての山が初めからそこに存在したわけではないかもしれない。
中には、造られた山もあったのかも。
場を形成する為に。
だが、「飯盛山」に必ずしも神社は必要ではない。
神社の無い飯盛山も(西日本に展開する)形を作る一つになっているのならば、
「イイモリヤマ」とその山が呼ばれ続けていること自体に意味がある。
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すでに「飯盛山」が他のどこかに存在し、その「名の無かった山」を、
「飯盛山」と多数の人が呼ぶことで、その役割を果たすようになっていく。
言葉にも神が宿っている。
それが「言霊」。
人がそれを言葉にする度に、言葉に込められた祈りの場が形成されている。
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「飯盛山」と呼ばれることの意味。
その言霊について、友人「kono87さん」が教えてくださった。
飯盛山の「飯」という字は、そもそも「米」であり、八十八を示唆しています。
イザナギが言霊「イ」で、イザナミが「ヰ」を表します。
陽と陰の性質があり、そのことにより、循環する生命は保たれています。
このブログには載せなかったが、伊勢の猿田彦神社で撮った写真を見て、
友人はお日様の中に「神」という字が見え、ある人には(それを言ってなかったのに)
「井」という文字が見えたそう。
その「井」も言霊「い」で、神を表す。
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(kono87さんのブログ。「先天十七神」)
http://kono87.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-4f0c.html
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福岡の飯盛山が「起点」であるとすれば、福岡に重要な何かがあった
(または、今もある)のかもしれない。
それらの山が「いいもりやま」と呼ばれることに意味があるのなら、
言霊に深く関係することなのだろう。
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「いいもり」の”い”は、イザナギ、イザナミの”い”であり、「生命の循環」を意味する。
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「もり」は守り?
(「もり」は、山、ひもろぎ。神が宿る場という意味もあるそうで。
土を盛ると、やま(山)になる。そのまま神の宿る場。
鎮守の森(もり)・・・のもりには、守りの意味もあるようですし、
”もり”の音に共通する概念が、守るのように思います)
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・・・”循環する生命を守る”
また、言霊”い”自体にイザナギ、イザナミ、両神の意味があるのならば、
それは”いざない”
福岡がその起点ならば、そこが「循環する生命を誘い守る場」・・・?
「いいもり」という響きが場を形成しているものの一つならば、
もしかしたらそのような意味があるのかもしれない。
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