結びの山 ~その14 日吉の神とニギハヤヒ命~
「日吉神社」がある福岡県筑紫郡那珂川町。
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彼の地には、<~その11~>にあるように、様々な伝承や地名がありますが、
中でも際立っているのが、その日吉神社と、「猿田彦神」と刻まれた
庚申塔(道祖神)の多さです。
庚申塔は町のあちらこちらにあり、土地の人達は花を飾り清め、大切にされています。
”視える”友人は、その庚申塔を見て「今でも生きて町をしっかりと守っている」と
私に告げました。
また、「箸墓の歌」の著書の中で小椋一葉氏は、その庚申塔の多さから、
猿田彦神の発祥の地ではないかとしています。
町でも、さるたくんというキャラがあちこちで活躍してます。
(さるたくん。コミュニティーバスの側面にも描かれてます。
写真は那珂川町の案内図より)
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私がその日吉神社を初めてご参拝した時、とても強い気を感じたのです。
滅多にそんなことは無いのですが、この時はとても力強い”気”を。
これは、「神威を見せて」と、自然と口にした言葉と共に撮った写真です。
特に強く”気”を感じた、境内にある猿像でした。
(一枚目と2枚目の猿像は同じもの。
一番下はちょっと俯瞰(左の猿像)。すべて同じ日に撮影)
コメントを下さった方は、天狗や天使にも見えると。
天狗は、神話の猿田彦神の姿と重なります。
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(Wikipediaより「猿田彦神」)
邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに
分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。
その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、
目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように
照り輝いているという姿であった。
そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ
行って誰であるか尋ねるよう命じた。
その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た。
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<高天原から葦原中国までを照らす神>
記紀に記されている猿田彦神の光り輝く姿から、天照神を表しているのでは
とも言われています。
”天孫”が来る前の一族の神、おそらく国津神ともされる一族の天照。
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<山王神>
この「日吉神社」は、山王神社の元宮とされています。
日吉神社の由緒書きに、
「最澄が唐から帰朝の折り、脊振山東門寺を開基。
これを比叡山延暦寺に移した時に、その守護神としてここの山王神猿田彦神を
勧請して彼の地に日枝神社を創建したという伝説がある」
とあります。
この日枝神社とは、日吉大社のことです。
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その滋賀の「日吉大社」がある比叡山は、元々「日枝(ひえ)の山」と
呼ばれていました。
「日吉・日枝・山王」神社の総本山と言われています。
二つの本宮があり、それぞれ神が祀られています。
西本宮には、大己貴神(おおなむちのかみ)。
天智天皇7年(AD668年)、大津宮に都を遷す際に、大和の三輪山より勧請されました。
東本宮には、大山咋神(おおやまくいのかみ)。
(もともとは、日枝の山におられた山神さまのこと、とも)
この神社が山王神社の総本山とも言われるようになったのは、
その地で生まれた最澄が、唐より帰った際、山王神を祀ったことに由来します。
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この「日吉大社」と那珂川の「日吉神社」の伝承から、
最澄が唐から滋賀へ帰る前に脊振山に寺を開き、
那珂川町の「日吉神社」の山王神・猿田彦神を
滋賀の日吉大社に勧請したことになります。
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<山王神とは>
滋賀の日吉大社のHPに、「山王神とは、日吉神の別名」とありました。
そういえば、那珂川町の「日吉神社」の鳥居の扁額にも「山王宮」と
刻まれてありました。
山王神といえば大山咋神のことだと思っていたのですが、
ご祭神は猿田彦神のみでした。
「別名」とあれば、同じ神。
「猿田彦神は、山王神であり、日吉神」ということです。
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大社の「山王神とは、日吉神の別名」・・・。
東と西に祀られているはずの、二柱の神。
なのに「日吉の神」とひとくくりにされているのは、同じ神だからです。
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<日吉大社の二柱の神>
西本宮のご祭神「大己貴神」は、奈良の三輪山・大神神社の
ご祭神である「大物主」。
そして、大己貴神、大物主神、共に同一神とされているのは
「ニギハヤヒ命」です。
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そして、東本宮には「大山咋神」が祀られています。
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また、その日吉大社の「山王神」とは、日吉神社の「猿田彦神」。
「日吉(山王)の神」でもある猿田彦神と、西本宮のご祭神である大己貴神。
その神が同じなら・・・。
「日吉神社から勧請された猿田彦神」は、大己貴神ということになります。
*(後に分かるのですが、那珂川の日吉神社の、神社庁に記載されている
ご祭神は、大己貴神と天御中主神などでした。)
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猿田彦神は、その神話の姿から、国津神の(大和朝廷の前の)天照とも
言われています。
また、ニギハヤヒ命の名は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
「天照」と名づけられた神社の多くには、ご祭神としてこの神が
祀られているのです。
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「日吉」の元宮とされる神社がある那珂川町。
<~その11~>に書きましたが、そこには「イザナギ神が禊をした」と
神話にある<筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原>と似た土地の
名と地形が、那珂川沿いにあります。(「安徳台と高天原」)
同じくイザナギ神の禊で生じたとされる
「住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)」を祀る元宮とされる
「現人神社」も存在します。
「禊をした地」は、神話では「天照が生じた土地」でもあります。
*後の記事
(「那珂川は饒速日命(天照・住吉・高良の神)の生誕地」)
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< この地の猿田彦神 >
ただ、誤解の無いように書きますと、私は猿田彦神とニギハヤヒ神が
まったくの同一神では無いと思っています。
この地の猿田彦神の伝承には、確かにニギハヤヒ神の痕跡を感じていますが、
そのものではないと思うのです。
「日吉神社の猿田彦神」としているのは、最澄が勧請したのは、
ここの神の(言うなれば)一部分。
天照神を暗示しているかのように思える姿も、
おそらく伝承が混ざったものだと感じてます。
様々な伝承が混ざって、今の猿田彦神の姿
(または、あらゆる神の姿)が出来上がっていったのだと思います。
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もしも最澄が、あの日の日吉神社の気と同じものを感じたのなら、
もしもそれが大社の神と同じだと感じたのなら、
間違いなく比叡山の守護神として勧請することと思います。
( 続く )
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