岩戸開き 2.5 ~番外編 天照とニギハヤヒ命~
***********************************************************
(少し脱線するので、番外にしました)
「天照とニギハヤヒ命」について。
.
神功皇后の夫、仲哀天皇はヤマトタケル命の皇子とされています。
ヤマトタケル命の叔母は倭姫。
皇祖神天照の鎮まる地を求め、近畿を巡り、最終的に伊勢の地の至ります。
この間に巡った土地が「元伊勢」と称されます。
その一つが京都の「籠神社」。
その時代には既に、「籠神社」にはご祭神、天火明命が祭られていたのだとしたら、
倭姫はその地こそが「天照」の鎮まる地では、と思ったのかもしれません。
ということは。
少なくともその時代には「天火明命(ニギハヤヒ命)が天照である」と
認識されていたのです。
.
*
かの神が「磯神、月神」だという名称はいつからでしょう。
彼がニギハヤヒ命であった時、「十種神宝」の中には
二つの玉(生玉、死返玉)がありました。
*(「神の鉾 5 ~月神と二つの珠と十種神宝~」)
籠神社の天火明命がニギハヤヒ命であるならば、これが「満珠」「干珠」です。
月と同じ作用をする神宝(海の潮の満ち引き、人の命の生死を左右する)
それを有するもの。
ニギハヤヒ命が「月神、海神」とも言われる所以です。
これらのことから、籠神社が創建された頃には既に、
「ニギハヤヒ命は、天照、月神であり海神(玉を有する故)」と
されていたのかもしれません。
さらにニギハヤヒ神だと思われる、
福岡、久留米の高良大社のご神祭、高良玉垂神は別名、磯良神。
(高良は物部氏の本拠地であり、これもニギハヤヒに繋がる)
磯神は五十(イソ)神。
奈良の石上(いそのかみ)神宮に繋がります。
(石上神宮は、物部氏の祖神を祀る神社)
*(「儺の国の星 ~宇摩志麻治の名の意味~」)より
「儺の国の星」には、記紀に布留御魂(ふるのみたま)は隕鉄、
布津御魂(ふつのみたま)は砂鉄を精練した剣のことであった。
と言う記述もあり、隕鉄(隕石の内、鉄とニッケルを主成分とするもの*大辞泉より)
は星そのもの、 "フル"とは、やはり星に関連する言葉なのだと思います。
"フツ"はスサノオ命。
"フル"はニギハヤヒ命の別名です。
*(「細石(さざれいし)神社」)より
簓星(ささらのほし)がその本(もと)の名であった。杷石(さされいし)とは
砂鉄、即ち磁鉄鉱 Fe3O4 の結晶である。これを還元する名匠が
伊迹師(いとし)、五十氏(いそし)、後に万葉の頃は石上(いそのかみ)であった。
(「儺の国の星」より引用)
布留御魂(ふるみたま)とは、石上神宮の御祭神、布留の神(ニギハヤヒ命のこと)。
隕鉄、磁鉄鉱など還元(精製)する名匠が五十氏、石上とされていたのは
偶然ではないでしょう。
彼(彼ら)がその技術を広めた故なのかもしれません。
「石上(神宮)」の名がいつからなのかは分かりませんが、
布留の神(ニギハヤヒ命)が「イソノカミ」をさすとは間違いありません。
さらに、伊勢は昔「磯宮」と呼ばれていました。
*(「二つの伝承 9 ~日の神 と 月の神~」
月の神であるニギハヤヒ命が日の神でもある理由)
伊勢の神がニギハヤヒ命であるのなら、「磯神」とされるのは偶然ではないでしょう。
それは「イソノカミ」と称するはずなのですから。
ならば「その時代」までは、そこにおわす神はニギハヤヒ命だと認識されていたはず。
その後の時代に「改変」されていったのではないでしょうか。
「天照」という存在だけが独り歩きをして。
(ニギハヤヒ命達がいたと思われる頃の古代の筑紫には、
風早神社(那珂川町の安徳台の側の神社)を始め、
鉄の精製跡と思われる場所がいくつもあります。
その辺りの那珂川にある「一の堰」は出雲のたたらの地下構造と同じだそうです
*(「裂田神社と裂田の溝(さくたのうなで) 福岡県」)
*なお、この後に出ますが「五十氏」の名から、筑紫一帯に残る神社の
ご祭神五十猛神とニギハヤヒ命との混同が起きたと思われます。
次は本編に戻ります。
.
( つづく )
« 岩戸開き その2 ~天照~ | トップページ | 岩戸開き その3 ~神功皇后~ »
コメント