神功皇后古道
砥上岳を下りた後、お宮に戻る前にこんな案内板と出会いました。
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「神功古道
筑前砥上~勝山・陣ノ内・畑島~森山峠~栗田~弥永
「日本書記」によれば、神功皇后は秋月の羽白
熊鷲を討つため、「香椎の宮」(福岡県東区香椎)
から進軍しました。従って、当地方への侵攻は砥
上方面からと想定されます。この道は古く、東に
行くと森山峠を越えて栗田~弥永~秋月へと山麓
を縫うように通います。
侵攻した皇軍は、栗田の「松峡(まつお)」(現在の栗田八幡宮)に
宮を定めました。ここで陣容を整え、熊鷲軍との決戦に臨みま
した。背後の「目配山」山腹には「松尾」や「上宮」の小字名
が残されています。
決戦は「層増岐野(そそぎの)」(新町・高畑付近か)で行われ、皇后は
熊鷲軍を滅ぼし、「我が心安し(安心した)」と周囲に語りまし
た。この「安」が当地方の地名起源とされ、奈良時代に「夜須」
(郡)の二文字に改められました。
伝承によれば「目配山」の山頂は皇后が腰掛けたという大石、
また四方に目を配ったという伝説が残されています。
皇后は熊鷲軍を滅ぼした後、朝鮮半島の新羅へ出発準備のため、
「中ツ宿なり」といって兵士に武器を研がせ、そのため池の水
は錆びで赤くなったといいます。この地が古代の「中津屋郷」
で現在の砥上(中津屋)神社一帯とされています。
その他、三並には、皇后郡の旗竿に使う竹を
切り出したという「勝山」、皇后が陣を布いた
という「陣ノ内」の地名が残されています。ま
た、畑島桜林の集落を流れる三並川を遡ると「
ヲケジョウ」という小字名があります。皇后は
この「お手水の滝」でお化粧を直したといい、
この川は別名「お化粧川」とも呼ばれています。
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香椎宮から進軍したのならば、
神功皇后が一番先に向かったのは、大根地山なのではないでしょうか。
大根地山には彼女が招いた神々が祀られています。
大いなる根(神)の地。
神々の力を土地に込め、鎮めたかったのは「荒ぶる神」
すぐ麓には冷水峠があります。
おそらくそこが「命尽くし」の神が出たと言う峠。
そこから南へ。
砥上へと抜けられます。
大根地山~冷水峠(くらがり峠)、
そして砥上神社~森山峠~栗田~弥永~秋月へと山麓沿いに進軍したのでしょう。
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砥上神社の「新羅征伐の前に武器を研いだ」という伝承は、
冷水峠に出た「命尽くしの神」を退治した武器を研いだ、ということかもしれません。
この辺りにはため池が点在してあり、砥上岳の麓のため池で武器を研ぎ、
池が赤くなったと言われています。
砥上は冷水峠から約7キロ、1時間半程。
冷水峠の「命尽くしの神」を退治した後、その本拠地へ向かう前に
ここで武器を研いだ。
そう考える方が自然です。
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また、前回の記事を書いて気付いたのですが、
砥上山中で神功皇后は「禊」をしています。
それは神と邂逅する為。
砥上岳の頂上に武神(武甕槌神)を祀るつもりがあったからです。
ならば、山に入るその前に「荒ぶる神」と戦った武器を、洗い清める必要があります。
だから、登る前にここで研いだのです。
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弥永の大己貴神社には、
「新羅進軍の時、神功皇后が兵が集まらないので社を建て神に祈った」とあります。
もともと香椎の宮にいたのならば、新羅との戦いの準備をこの辺りで
する必要がないのではないか、そう思っていました。
ですが大根地山から秋月へと進軍したのでしたら、
「この辺りの人達が軍に加わった」
という説が妥当なのではないかと思います。
弥永と秋月。
5キロほどしか離れていません。
それなのに集まったのなら、「熊鷲軍に苦しめられていたから」
そういう背景が見えてくるようです。
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宮を建てた。
それは、「熊鷲征伐」の後だと思います。
この地の大己貴神社の側にある三輪山。
奈良の三輪山に似ているその山に「三輪の大神」を招き、勝利を願い、
すべてが終わった後、宮を建てたと言うこと。
この弥永周辺には、奈良と同じ地名がたくさんあります。
平和になった後に、大和から神功皇后と共にこの地に来ていた人達が、
ここに移り住んだのでしょう。
奈良の「大神(おおみわ)大神宮」の大神様。
「おんが様」と共に、ここで生きて行くことを望んだ人達が。
それは・・・もしかしたら、「高良」の伝承の通りに、
神功皇后が大和に戻らなかったことを示唆しているのかもしれません。
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