「儺の国の星」 ~岩戸~
「儺の国の星」は真鍋大覚氏が、書かれた本です。
続編として「拾遺」があります。
元は那珂川町の「広報なかがわ」に「那珂川の星紀辰位」として連載されていたもの。
那珂川町が発行しているので、あまり世の中に出回っていません。
私がその本に出会ったのは町の図書館です。
こんなすごい本が広報で??と驚いたものでした。
那珂川町は知れば知る程、すごく奥深い土地だったのです。
以前、このブログにこの町が「イザナギ神が禊をした」地だと書きましたが、それについて書かれてありました。
「那珂川は祓宮(はらえど)の故郷」
やはり、かの土地は日向の橘の小門の阿波岐原の地。
以下、そのことについて書かれてある箇所を抜粋します。
「儺の国の星」より 真鍋大覚氏 著作
**********************************************************
春秋の頃は冬至の前に暦日の年度調整をいたしました。
(中略)
昔の神官庄家は、冬至を前にして井水で身を潔め、
以て新しき年の日振りの机の前に座りました。
那珂川は祓宮(はらえど)の故郷でありました。
古事記の日向の橘の小門の阿波岐原の物語が
思い出される年の瀬、年の背であります。
・
那珂川の西隈あたりを、昔は立花とよびました。
”たちばな”とは虹の根が大地に率直に登る部分の光景で
ありまして、特に夕日に映えるところから、中の黄がめだたず、
両側の赤と紫が一つに滲んで溶けあった朱にみえる
現象を云いました。
”たちばな”は祓の言葉では”をと”の冠辞になっております。
小戸(門)とは山脈が左右両岸にそびえ立ち、
その間を往古は海流潮流が勢を荒だてて通ったところで
ありましたが、年経た今は田圃に作られて盆地となり、
しずかな川が淀むところになりました。
土を掘ればいたるところに井戸が湧きあがってきますから、
地形からして水蒸気の柱が立ちやすくなり、
ここに虹の足が鮮に色こくみえることになります。
これが”たちばなのおど”なる成句が三千年の間、
神官によって詠まれ、居会はせる氏子百姓漁師に何の
不思議もなく云い継がれ、聞き継がれて今日に及んで
いるのであります。
****************************************************
その「那珂川の小門原」という場所。
そこは神功皇后が禊をした地。
その地は「岩戸」でもありました。
「儺の国の星 拾遺」 より抜粋
***************************************************
万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手と下手の
二つに別けて、その境の狭く縊(くび)れたところを仕切って、
ここに堤と閘門を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、
夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、
やがて上手の水が空閑(こが)になると、
そこに晩生の陸稲を植えた。
貯水の面積までが活用される仕組みであった。
この農法は今も大陸では保存されており、
瀦水沓(ちょすいとう)と今も呼ばれている。
天平の昔までは、倭人はこれを”ゐみず”或は”いほと”といった。
さきほど出た射水も那珂川の岩戸も、かつての瀦水沓の
和訓を教える地名である。
*******************************************************
この農法、日吉神社の案内板に記載されていた「さるた」というものと
似ています。
「春に浅瀬の多い川を止めて湖を作り、これに苗を植え夏
の日照り時に水を引いて秋の収穫まで干し上げる古式栽
培のことでもありました。」
「さるた」とは赤米のことでもあります。
「さるた」がこのような農法を広めた人(一族)の名でもあるなら、
この辺りがその農法の発祥の地でもあるのだと思います。
「日吉神社」の地は南畑の市ノ瀬という地区で、岩戸よりも奥(那珂川の上流)になります。
日吉神社に祀られているのは、猿田彦神。
この地は、猿田彦発祥の地とも伝えられているのです。
また、猿田彦神の古事記の「天と地を照らす神」という記述から、
彼は天津神が高天ヶ原から地上に来訪する前の天照だとも言われています。
(「結びの山 ~その14 日吉の神とニギハヤヒ命~」)
.
「天津神の前の天照」
「岩戸開きの天照」(おそらく開かれる前、その後、その両方の)
.
那珂川町には現人神社もあります。
イザナギ神の禊で現れた住吉三神を祭る最初の神社。
それは饒速日神。
この地は神話の故郷でした。
*
「儺の国の星」には、この町に伝えられてきた星の名が綴られています。
かの本によると、藤原氏の庄園があり、戦乱の最中でも守られてきた土地であり、
神功皇后、皇極・斎明天皇、天武天皇、持統天皇、安徳天皇の行宮も
あったそうです。
古くは那珂郡。
「北は志賀島までがその領域で、東は博多から諸岡あたりが湊の船付場と
砂浜でありました」
との記述もみえます。
先日書いた「磯城」の地もこの那珂郡に入ります。
玄界灘を行き交う船人にとって、星は唯一の道しるべ。
数多の星の名が付けられ、遥かな時を連綿と受け継がれてきたのかと
思うと胸が熱くなります。
かの本には、その昔、那珂川では”あまのかわ”を”いそのかわ”と呼んでいたともあります。
この地では”あま”と”いそ”が同義だったのかもしれません。
那珂川に伝わっていた星座五十六宿。
それも以曽良星(いそらのほし)。
.
この土地の産土神は、現人の神。
オリオンの三つ星の化身である住吉の神。
星を意味する「布留」は、饒速日神の名の一つでした。
彼が磯良神ならば、ここに在るのは必然なのでしょう。
.
最近のコメント