高良の神と日甕
「神功皇后古道」
その道は、神功皇后が筑紫の国に確かに存在したことを強く感じさせるものでした。
大根地山は、神功皇后が羽白熊襲征伐の時に登り、天神七代、地神五代を祀った山。
その麓にあるのが「冷水峠」です。
その峠が筑紫の伝承の「荒ぶる神」が現れたという「したくらつくしの坂」ならば、「命尽くしの神」の伝承は羽白熊襲(熊鷲)を退治する話。
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同じ伝承のものならば、神功皇后は「命尽くしの神」の伝承を持つ、筑紫神社の「宝満神」であり、基山の荒穂神社の「甕依姫」。
その二つの社に彼女と共に祀られているのが、
筑紫神社の「筑紫神(白日別神)」と
荒穂神社の「五十猛神」。
両神は高良の神(白日別神)である饒速日命。
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その饒速日命はこちら筑紫に数々の伝承を残し、それが由来の神社が
たくさんあります。
宮若市にある「天照神社(天照宮)」など。
ご祭神、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
また、幾つかの「天照」を冠する神社があります。
高良山の登山道にある「式内伊勢天照御祖神社」。
ご祭神は天照大御神。
他にもありますが、久留米市大石町の「伊勢天照御祖神社 」
ご祭神は、天照国照彦天火明命(饒速日命)。
高良の神が饒速日命であり、天照神でもあるので、
高良の山中にも天照のお宮が存在していたのです。
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高良大社の奥宮。
神紋は三つ巴。
現人神社(住吉三神)と同じ紋でした。 .
案内板です。
7世紀の後半、仏教が高良山に入ると高良の神の本来の姿は、
毘沙門天であるという信仰が起こったそうです。
毘沙門天は七福神の一柱。
なので、奥宮(その神の本質が祀られる)も毘沙門天とされ、
高良山も毘沙門岳と呼ばれるようになりました。(案内板要約)
毘沙門天の名で繋がったことがあります。
それは、太宰府にある四王寺山の「毘沙門堂」。
四王寺山は高良の伝承「高良玉垂神秘書」に、高良の神である住吉神達四柱が
神宮皇后の祈りに応え、降臨した山とされています。
「(神の鉾 2 ~高良玉垂宮神秘書~」)
登って探したのですが、「高良の神」を祀るお社がなく、
一番標高が高い大城山の山頂の側にある、こちらの「毘沙門堂」なのかと
思っていました。
高良の奥宮の案内板によると、それで間違いないようです。
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「高良玉垂神秘書」は平安時代の作だと言われています。
仏教の流入により、高良の神が毘沙門天ともされたのが
7世紀後半のことならば、それよりもずっと後の話。
「四王寺山」での降臨の部分の伝承は、後の創作なのではないかと思います。
「四つの山」にちなみ「四天王」を置き(毘沙門天、持国天、増長天、多門天)、
共通する神である「毘沙門天」から、高良の「四王寺山」の部分の伝承が生まれたと。
四王寺山には神を降臨させる(または降臨した)ほどの神気がないのです。
それがずっと気にかかっていました。
多くの人が集う、とても柔らかで穏やかな気は満ちているのですが。
例えそうであったとしても、人が「祭った」時から、神はそこに存在します。
「四王寺山の毘沙門天」は、高良の神でもあるのでしょう。
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再び、高良山。
高良のお社には他の三柱の(住吉三神の父と表筒男神、中筒男神)が
祭られていません。
表筒男神とは神武天皇とされていますが、初めに名が出るだけです。
こちらの地方に祀る神社なども無いことなどから、後世の創作と思われます。
中筒男神については「誰」に当るのか、存在していたのかも分かりません。
その件は「高良の神」がどの時代(人)に当るのかを示しているように思えます。
高良の伝承にはもう一柱の住吉の神がおられます。
(住吉三神の父であるとされるウガヤフキアエズ神)
高良の神(底筒男神)が饒速日神であるならば、
住吉三神の父とされる方の住吉神は、スサノオ命です。
スサノオ命も当初、北部九州に饒速日命と共に来ていたのではないか
と推測されている方もおられました。
「箸墓の歌」の著者、小椋一葉氏です。
脊振山には、二龍が降ったという伝承があり、それがスサノオ命と饒速日命だと
されていました。
脊振山はくじふる岳。
奇(くし)なるものが天降った奇降岳なのです。
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饒速日命は九州の北部を治め、後に大和へ。
その地でミカシヤ姫と夫婦になっています。
筑紫に戻ることがあるならば、彼女もこちらに来ています。
それを窺い知れるのが筑紫神社と基山周辺の伝承でした。
二つの伝承の宝満神と甕依姫。
それがミカシヤ姫なのではないかと。
そうであるならば、神功皇后はミカシヤ姫でもあります。
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高良の神が饒速日神ならば、彼女達には共通点が見えてきます。
両者とも元々大和にいて、玉依姫であった。
それは「神の依り代となるもの」。
ミカシヤ姫が饒速日命と夫婦であること。
神功皇后と高良の神が夫婦であること。
ミカシヤ姫は、櫛甕玉姫。
神功皇后が、筑紫の伝承の「甕依姫」であること。
共通する「甕」の字。
その意味は「神に捧げる供物を入れる器」
または「天甕星」にある”酸漿(ほおずき)のごとく赤く輝く星”。
(ミカシヤ姫の「カシ」も星を表す)
彼女達は共に「日甕(ヒミカ)」。
日の神に仕える者であり、饒速日神の別名(布留、フル)と同じく星の名。
高良神が饒速日命であるからこそ、それは偶然ではないのでしょう。
饒速日神には、櫛甕玉命の別名もあります。
高良の神が饒速日神。
神功皇后がミカシヤ姫。
そう告げているようです。
同一人物かもしれない。
でも、神功皇后がミカシヤ姫ならば、彼女の前の世代の天皇の存在をすべて否定してしまうことになる。
もしも、ミカシヤ姫が卑弥呼ならば、神功皇后よりも1世紀以上前の人になる。
ならば、「生まれ変わり」なのか。
だから、神功皇后の元に住吉神(現人神)が現れたのか。
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弥永の「大己貴神社」の神は、大己貴神。
そこは旧三輪町であり、「大神様」からおんが様と呼ばれています。
奈良の三輪にある「大神神社」と同じ。
大物主神、かの神は大己貴神です。
奈良の三輪山は「饒速日命」のご陵とされます。
ご陵とはお墓。
こちらの高良の神が饒速日命ならば、何故奈良に墓なのか。
奈良の三輪山がからっぽだとも思えないのですが。
また高良の伝承の神功皇后は数多のそれと違って、こちらで亡くなっているのです。
彼女が亡き後、高良の神は高良山を出てから消息不明になります。
その後に再び、大和へ行ったのか・・・。
同一人物なのかどうかも含め、何が真実なのかは分かりません。
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「伊勢の神」
伊勢の「伊勢音頭」にはこんなくだりがあります。
「お伊勢参りに 朝熊(あさま)をかけよ 朝熊かけねば 片参宮」
朝熊神社は伊勢神宮の鬼門にあります。
ご祭神は、大歳神。
饒速日命です。
伊勢がその昔、「磯宮」と言われていたことからも、
彼は「磯良神」でもあるのでしょう。
「いそのかみ」は、石上。
奈良の石上神宮のご祭神は、布留神。
三島神社と同じその神は、饒速日神です。
「三島」はオリオンの三つ星を意味しました。
その神格化であるのが住吉の神。
三島神社 光の集合体
「磯良神」
「儺の国の星 拾遺」の結言の中にもそれがあります。
昔、那珂川には星座五十六宿がありました。
これを以曽良星(いそらのほし)と呼びました。
”い”は別の訓(よみ)が”もち”であり、
胡語のmuruh(ムル*星の古語)の写しであり、
”そら”は宇宙空間のことでありました。
「儺の国の星」
それは那珂川に古来から伝わる星の名が紡がれた本でした。
那珂川町と磯良神。
かの神は、現人神社(住吉神社の元宮)の神。
そして、ここに裂田溝を作った神功皇后。
二人とこの地との繋がりはとても深かったのです。
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