磯城と歳神
☆1 磯神は天火明命
☆2 磯城と十市
☆3 「儺の国の星」の十市
☆4 ししき
☆5 筑紫の磯城
奈多の志式神社。
神紋は三つ巴。
ご神祭は、天火明神。
ここには神楽の磯良舞がある。
このお社に参拝した数日後に、那珂川町の伏見神社の祇園祭で神楽の「磯羅」を見た。
*志式神社の祇園祭でも神楽の「磯良舞」が奉納される。
伏見神社の神は彼らであった。
高良神は祇園さんなのだ。
(☆→神*総まとめ)
二つの神楽の磯良(羅)神は、干珠・満珠をもたらし使いこなしたと言う「高良玉垂(玉を授ける)神」、高良神。
彼の神は住吉神、元宮である那珂川町の現人神社の神。
(ご祭神は住吉三神)
今までの考察から、彼は饒速日神だと分かった。
(☆→高良玉垂宮神秘書 2 ~高良神は物部の祖神~)アメブロの記事
かの神は天火明命。
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磯良舞が奉納されている、この志式神社のご祭神も天火明命であった。
同神だからである。
*
☆2 < 磯城と十市 >
志式神社。
ししき。
し・の・しき。
しき。
確か重要な名の一つ・・・うんと考えてようやく思い当たる。
<磯城(しき)>
奈良の天理から桜井市を含む広範囲が、昔は「しき」と呼ばれていた。
(ウィキによると、雄略天皇が居たという「斯鬼宮(しきのみや)」の表記が初め)
その辺りは三輪山の麓。
三輪山の南麓には古代の重要な交通の要所があり、最初の市、海柘榴市(つばいち)があった。
饒速日命が作ったのではないか、と昔何処かで見たが、真偽は分からない。
ただ、その海柘榴市を守護する神が祭られているという、大神神社の末社「大行事社」のご祭神は事代主命。
大己貴命の子とされているが、同一神。
その近くには「大和朝倉」という駅もある。
福岡の朝倉郡の旧三輪町には「大己貴神社」がある。
偶然ではあり得ない。
奈良の大神神社(三輪山)の大物主神は、大己貴神だ。
三輪山の大物主神が饒速日神でもあるなら、大己貴神もまた彼。
また近年、三つの郡が合併して磯城になった時の一つが「十市(とおいち)郡」という。
(元々、「しき」の範囲内の地)
この土地の名の元になった十市氏がいた。
友人が、これは「とし」のことではないかと。
そこには一族の祖神の天火明神を祭る竹田神社があった。
(耳成山の北東)
饒速日神には「歳(トシ)」神の名がある。
十市氏の祖神が天火明であり、彼が歳なのだから必然なのだ。
*
☆3 <「儺の国の星」の十市>
真鍋大覚氏の「儺の国の星 拾遺」に十市星について書かれてあった。
十市星について。
”とほち”とは、淡水が地面または海面に溢れる現象を云い、
逆に塩水が地面又は河面に溢れる現象も表現する。
所謂ところの洪水高潮の類が”とをち”であり、
後の”とほし”になったのである。
(中略)
十市星(としのほし)が並ぶ頃、渡水の儀式が潴水番(*ちょすいばん)
の閘門の上で厳粛に執り行はれる。
これを歳祭(としまつり)と言う。
百姓が年、即ち米稲の収穫の平安を星影に祈るからである。
見事に稲の神である歳神さまに繋がった。
十市は歳神を意味していた。
この十市とされる竹田神社のある場所の辺り、私が見た「古代奈良の夢」では、ほぼ湖の最高地点になる。
年々増える水かさを心配して立っていたのが、耳成山を南西に見る地点だった。
”とおち”とはその状態を表した土地の名なのだろう。
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*
饒速日神を祀る三輪山の麓、その場所が磯城(しき)。
「しき」の地が彼と無関係ではないことを、示している。
その「しき」が遥かな時代を経て、磯城と表記されるのは、強い縁を感じる。
三輪山の神(饒速日神)は高良神であり、彼は磯良神なのだ。
また彼は天照。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
伊勢神宮はその昔「磯宮」と呼ばれていた。
*(「二つの伝承 9 ~日の神 と 月の神~」)
*
友人によると、「しき」は「皇居の敷地」の意味が近いのではないかと。
(昔は皇居の呼び名では無かったので、上の位の人が住む場所という意)
「しき」は国が栄えた始めの土地だと。
そういえば、記紀には奈良盆地の東南部に天皇の住まいがあったとある。
それはちょうどこの辺りのこと。
敷島と言えば大和の枕詞でもあった。
大和国の始めであり、大和そのものを表すのかもしれない。
*
☆4 < ししき >
その、「しき」の「し」。
「しきの始め」であった場所。
それが「志式(し・しき)」。
この場所に、三つ星の神を祭る一族がいた。
志賀海神社の神、綿津見(少童)三神を祭った「阿曇連(あずみのむらじ)」。
志賀島を拠点とした海族の一族。
その神社の神紋は共に「三つ巴」。
住吉神社・八幡神社・志賀海神社・大神神社・鹿島神宮・宇佐神宮など、様々な神社の神紋になる。
すべて同神だからだとみている。
志賀海神社は志式神社の西。
海の中道の先にある志賀島にある。
ご神祭、綿津見(少童)三神は、イザナギの禊の時に、住吉三神と共に現れたとされる神。
高良の伝承で、住吉の底筒男神が「安曇磯良神」とされていたのは、元々同じ神であり、かの一族の神でもあったからだ。
共にオリオンの三つ星を神格化した神なのだ。
かの神を祭った一族の故郷。
「し・しき」は、「しき」の始めという意味なのではないか。
*
☆5 < 筑紫の磯城 >
「磯城」についても「儺の国の星 拾遺」に書かれてある。
縄文の頃は津浪が多く海浜の波に洗われて磨かれた転石を積み上げて、
波止めを築いた。これが筑紫の由来と説かれている。
隋人は竹斯と書いた。記紀には磯城の名で記されている。
福岡の志式の名の由来はおそらく「し・磯城」
筑紫の名の由来と同じである磯城。
*(筑紫は、「命尽くしの神」が由来という説もあり)
阿曇氏が祭った神・磯良神が、大和へ。
そうして栄えた土地の名が「しき」
後に「磯城」。
こちらがその始めなので「ししき」。
何故、海もない、奈良のあのような場所が「磯城」なのか、ようやく腑に落ちた。
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こんばんは~(^0^)
玉置神社の事を載せていただきありがとうございました。
十種神宝のことも書いてあったように思います。
饒速日神の事が少しずつ分かってきました。
ありがとうございます。
奈良の大神神社のすぐ近く(南に2~300m)に、
志貴御縣坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)があります。
そこが崇神天皇の皇居跡だと聞いてます。(以前参拝しました)
そこに石碑(崇神天皇磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと))もありました。
(良かったら私の投稿写真も探してください(笑))
崇神天皇6年まで、天照大神・倭大國魂神が皇居の中で祀られていました(天皇と同床相殿)
その後天照大神は笠縫邑に・・・(元伊勢の始まり?)、倭大國魂神は・・・
実際の場所は少しずれて、今は天理教地のようですが。
投稿: 章 | 2018年7月25日 (水) 20時18分
章さん、コメントありがとうございます(*^-^*)
玉置神社のURL記載させて頂きました^^
行ったのが十何年も前なので、すっかり忘れてました。
日本大國魂大神が祭られてる「大和神社」でしょうか?
天理市新泉町にありますね。
「日本大国魂大神、八千𠀋大神、御年大神」が祭られているという。
御年は饒速日でしょうね。
例えここじゃなくて、天理教の敷地内にある神社でも、
懐が深いので言えば参拝させてもらえますよ^^
私は信者じゃないですが。
投稿: 弥沙 | 2018年7月26日 (木) 14時30分
こんばんは~(^0^)
書き方が悪かったみたいです。すみません
磯城の事で、。「志貴御縣坐神社」のことを書いたつもりでした。
住所は桜井市金屋896です。
ここに崇神天皇の住まい(皇居?)があったようです。
ここ(宮中)で崇神天皇6年まで、天照大神と倭大國魂神を祀っていました。
やはり、特別な場所だったんですね。
投稿: 章 | 2018年7月26日 (木) 19時04分
ご神祭、天津饒速日神なんですね。
そのままでしたね(*^-^*)
行ってみたいです。
この神社が元伊勢と言われていたり、
天火明命がご祭神の籠神社が元伊勢だったりと。
天照が彼ということを隠そうとする意図は見えないですね。
投稿: 弥沙 | 2018年7月26日 (木) 19時59分