奈良の神功皇后と山登り
奈良には神功皇后が登った山が無いのです。
福岡にいる私が把握できていないだけなのかもしれませんが。
*
彼女は熊襲(羽白熊鷲)退治と三韓征伐を成し遂げた後、北部九州から奈良(大和)へと戻ります。
その後、忍熊皇子達との戦いが日本書記に記されてあります。
忍熊皇子の名が由来の押熊町は、私が通っていた小学校の校区にありました。
神功皇后の山陵町のご陵さんからは2キロほど。
押熊のすぐ隣は、「神功」町です。
道を隔てると京都。
(神功は新興住宅地なので、後から名付けられたのかもしれません。)
それ以外の「彼女」の形跡。
それが奈良には全くないのです。
*
福岡・・・筑紫には彼女の足跡が多く残されています。
祭った神々や、神社、神事の名残。
那珂川町の裂田溝(さくたのうなで)の伝承も未だに健在です。
神社の社伝として、伝承として、後世の人達が連綿と伝えています。
中でも彼女は、行く先々で山に登っていたことでもよく知られています。
神功皇后が登ったのは三韓征伐の戦勝を願う神事をする為であったり、国見をする為。
山頂でその山の神と心を通わせ、あるいは神を招き、土地の安寧を祈る為です。
そこには神がおられます。
山の中には、私が以前、飯盛山で見た「人の願いが集まり、神が創られる」
神奈備のような特別な山があるのです。
そんな重要な場所なのに。
*
何より、山に登り、その魅力にはまった人は、登らずにいられなくなります。
福岡周辺の低山であっても、それが充分に分かります。
最近、毎日暑くて、マダニも怖いので自重して登ってないのですが、
ただただ登りたいっ!
公園で踏みしめる地面や落ち葉でさえ、そこから山を想ってしまう。
登ってる間のあの瞑想にも似た時。
この世界に自分は生かされているんだという実感。
そこでしか感じられない、時間、感覚。
山の風、気配、そこにあるすべて、それこそが神。
私は山で神と会っている。
そうまで思ってしまう。
上宮にお社があるのは、そこに神がおられるから。
そう感じた人がいた証。
そんな場所なのに。
本当に彼女は、その後、大和に居たのでしょうか。
宝満山から見た空を。
黄金色の空を、大地を。
一度でも見たら、人はそこに神を感じる。
またそこに行きたくなる。
こちらで山に登ったのは、勝利を願っただけではない。
ならば、大和でも彼女の足跡があるはずなのに。
宝満山 竈門神社 上宮
それともう一つ、疑問に思う事。
宝満山ほどの山ならば、身重では登れないはず。
当たり前のことですが登山はきついです。
宝満山は今でこそほぼ石段ですが、それでも1時間半の石段はきつい。
彼女が登ったという時代ならば、登山道も整備されてもなく、
安定期に入っていたとしても、とても登れるものではありません。
まだ登ってませんが雷山も、その昔は大変な山だったと聞いてます。
でも伝承の中では、三韓征伐の前に数多くの山に登って
神事をしています。
それは、多分あり得ない。
足取りだって危うい。
御子を宿し、そこまでの危険なことはしない。
今ほどの医療が発達していない時代、出産の事故は
今よりもずっと自身の命取りにもなります。
私自身この半年で、彼女の伝承が残る山を含め、三十座ほど
登りましたが、それはこの身一つであったから。
宝満山 再会の木
*
では、何が本当なのだろう。
彼女が現実に存在していたことは確かだと思います。
数々の山に登って神事をしていたことも。
どこまでが本当なのだろう。
.
「高良玉垂の神秘書」では、神功皇后は高良の神と夫婦になったとありました。
神は人でない。
「神との婚姻は人のそれにあたらない」
と前にどこかで聞いたことがあります。
彼が人の姿としてこの世に現れていたとしても、それは神。
神の巫女としての婚姻は、人のそれと違うと認識されるのです。
ならば、「卑弥呼が独身だった」という魏志倭人伝の伝承にも繋がります。
卑弥呼と神功皇后。
その1世紀半と言われる時代の差。
(こちらの香椎宮や高良大社では、神功皇后は200年台の人として伝わっています)
それは何故?
やはり幾人かの伝承が混ざっているのか。
それは分かりません。
*
ただ一つはっきりしていることは。
山に在る神と離れることはできません。
その存在を知ったのなら。
« 「儺の国の星」 ~岩戸~ | トップページ | 「儺の国の星」~物部一族とARION~ »
コメント