日本の真相 7.5 ~饒速日命の九州王朝と物部~(改訂版)
続きです。
(☆→日本の真相 7 ~物部と御祭神*天火明命~)二つに分けました。
以下、PDFの(日本の真相 3)より要約。
http://g-village.net/iyasaka369/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B83.pdf
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物部(イスラエルの氏族)が先に九州に渡来しており、「九州王朝」があった。☆1
後に渡来した、秦氏とガド族の王のフル。
フルは九州王朝に婿入りし、秦氏の大王=応神天皇=神武天皇となる。☆2
物部氏のトップ=王族は尾張氏(熱田神宮)=海部氏(籠神社)。
尾張氏が族長の印たるアロンの杖=草薙神剣を保有することが証。☆3
フルが九州物部王朝に婿入りした証として持ってきたマナの壺は、尾張氏と王族である海部氏の手に渡り、勾玉の原型となった。☆3
(以上、要約終わり)
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フルは、布留神、饒速日命。
彼は北部九州から、大和へ。
そこで登美族に婿入りし、御炊屋姫と夫婦になっています。☆4
共に、北部九州へ移動。☆5
その後の物語が、住吉神(高良神・応神天皇)、神功皇后となります。
上の「日本の真相」を照らし合わせると、こうなります。
「物部の九州王朝」は彼が来るより前に存在していた。☆6
大和の登美族は、物部であった。☆7
彼らが九州王朝であった。☆8
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☆1と☆6 彼らの前に九州王朝はあったか。
この真偽は分かりません。
神話では、饒速日命は北部九州(筑豊)の人たちと共に、大和へと向かっています。
その当時、北部九州にはいくつかの国があったことは確かですが、彼らに連なるものかは判断できません。
☆2と☆4☆7から 饒速日命の婿入り
饒速日命は大和の登美族に「婿入り」しています。
その言葉は神話でもこの場面にしかなく、「日本の真相」の”物部に婿入り”は、登美族を示していると思われます。
*登美族は物部であったか。
「物部」は、少なくとも、饒速日命と大和の登美族の御炊屋姫から始まっています。
理由として、
☆彼らは登美饒速日命であり、御炊屋姫は登美夜毘売(とみやびめ)の別名を持つ。
☆大和には登美(富雄、鳥見)にちなむ名が多いが、筑紫にはあまりない。
☆物部氏の子孫は、彼らを祖神としている。
名を替えた、饒速日命(男神・天照)、御炊屋姫(女神・天照、豊受、宗像神 など)。
そのことからも、
饒速日命は大和に行き
↓
大和の登美族に婿入りし、
↓
そこで御炊屋姫と夫婦になった。
↓
後に彼らの子孫が「物部氏」と名付けられた。
婿入りの言葉からも、登美族は彼らと同等の地位にあった一族と推測できます。
その頃、すでに北部九州に王朝があったのなら、分離して大和へと移動した一族なのかもしれません。
「日本の真相」の物部は「大陸から来た者(イスラエルから来た?)」の概念のようにも思われます。
☆3 アロンの杖、マナの壷=三種の神器(または十種神宝)
神話の神武天皇が饒速日命自身ならば、彼が神武に見せた「天神の御子の証」はこれを意味しています。
☆2☆4 フルは、応神天皇
大和から北部九州(筑紫)へと共に移動。
理由として、
☆御炊屋姫は、豊受大神、宗像神(市杵島姫命)=北部九州(筑紫)の神です。
彼女は大和の登美族の者であるので、後に筑紫へと移動したことを意味する。
☆高良神は、物部の祖神の饒速日命。
住吉、応神天皇、神武天皇ほか、ほとんどの神。
☆高良神と神功皇后は夫婦。
これらから、
大和から筑紫へと移動し、その後が高良神と神功皇后である
ことが分かります。
彼らが再び、北部九州に戻ってきたのは、AD100年代の後半~200年代(2世紀後半~3世紀前半)です。
こちら(福岡)の神社では、おしなべて神功皇后を200年の人物としています。
彼女が卑弥呼だと結びつけているからこその年代。
彼らは筑紫で「九州王朝」を築いた(または、後継者となった)のです。
漢から贈られたという「漢倭奴国王」の印は、志賀島から出土しました。
彼は奴国(今の那珂川市一帯)の王であり、彼が祀られる志賀海神社(御祭神、綿津見神=安曇磯良神)がそこにはあります。
それは彼らの「九州王朝」に贈られたものかもしれません。
( つづく )
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