ブログ村に参加してます!ぽちっとお願いします

*このブログについて

  • amebloにもサイトがあります。 そちらに載せる時に加筆したもの(後に分かったこと)を、改訂版として再びこちらへUPしている記事もあります。
2023年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

amebloリンク

無料ブログはココログ

☆ブログからの引用などについて☆

  • このブログの考察、写真、イラスト、考察などは、管理人に著作権があります。無断転載は御遠慮ください。

« 日本の真相 7 ~物部と御祭神*天火明命~(改訂版) | トップページ | 日本の真相 8 ~邪馬台国と物部氏~(改訂版) »

2018年11月 2日 (金)

日本の真相 7.5 ~饒速日命の九州王朝と物部~(改訂版)

続きです。

(☆→日本の真相 7 ~物部と御祭神*天火明命~)二つに分けました。

 

以下、PDFの(日本の真相 3)より要約。

http://g-village.net/iyasaka369/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B83.pdf


********************


物部(イスラエルの氏族)が先に九州に渡来しており、「九州王朝」があった。☆1

後に渡来した、秦氏とガド族の王のフル。
フルは九州王朝に婿入りし、秦氏の大王=応神天皇=神武天皇となる。☆2

 

物部氏のトップ=王族は尾張氏(熱田神宮)=海部氏(籠神社)。

尾張氏が族長の印たるアロンの杖=草薙神剣を保有することが証。☆3


フルが九州物部王朝に婿入りした証として持ってきたマナの壺は、尾張氏と王族である海部氏の手に渡り、勾玉の原型となった。☆3

            (以上、要約終わり)

************************

 

フルは、布留神、饒速日命。

彼は北部九州から、大和へ。

そこで登美族に婿入りし、御炊屋姫と夫婦になっています。☆4

 

共に、北部九州へ移動。☆5

その後の物語が、住吉神(高良神・応神天皇)、神功皇后となります。

 

上の「日本の真相」を照らし合わせると、こうなります。

 

「物部の九州王朝」は彼が来るより前に存在していた。☆6

大和の登美族は、物部であった。☆7

彼らが九州王朝であった。☆8

 

*********

 

☆1と☆6 彼らの前に九州王朝はあったか。

 

この真偽は分かりません。

神話では、饒速日命は北部九州(筑豊)の人たちと共に、大和へと向かっています。

その当時、北部九州にはいくつかの国があったことは確かですが、彼らに連なるものかは判断できません。

 

☆2と☆4☆7から 饒速日命の婿入り 

饒速日命は大和の登美族に「婿入り」しています。

その言葉は神話でもこの場面にしかなく、「日本の真相」の”物部に婿入り”は、登美族を示していると思われます。

 

*登美族は物部であったか。

「物部」は、少なくとも、饒速日命と大和の登美族の御炊屋姫から始まっています。

理由として、

 

☆彼らは登美饒速日命であり、御炊屋姫は登美夜毘売(とみやびめ)の別名を持つ。

☆大和には登美(富雄、鳥見)にちなむ名が多いが、筑紫にはあまりない。

 

☆物部氏の子孫は、彼らを祖神としている。

名を替えた、饒速日命(男神・天照)、御炊屋姫(女神・天照、豊受、宗像神 など)。

 

そのことからも、
饒速日命は大和に行き

大和の登美族に婿入りし、

そこで御炊屋姫と夫婦になった。
 ↓
後に彼らの子孫が「物部氏」と名付けられた。


婿入りの言葉からも、登美族は彼らと同等の地位にあった一族と推測できます。

その頃、すでに北部九州に王朝があったのなら、分離して大和へと移動した一族なのかもしれません。


「日本の真相」の物部は「大陸から来た者(イスラエルから来た?)」の概念のようにも思われます。

 

☆3 アロンの杖、マナの壷=三種の神器(または十種神宝)

神話の神武天皇が饒速日命自身ならば、彼が神武に見せた「天神の御子の証」はこれを意味しています。

 

☆2☆4 フルは、応神天皇

     大和から北部九州(筑紫)へと共に移動。

 

理由として、

☆御炊屋姫は、豊受大神、宗像神(市杵島姫命)=北部九州(筑紫)の神です。

  彼女は大和の登美族の者であるので、後に筑紫へと移動したことを意味する。

☆高良神は、物部の祖神の饒速日命。

  住吉、応神天皇、神武天皇ほか、ほとんどの神。

☆高良神と神功皇后は夫婦。

 

これらから、

大和から筑紫へと移動し、その後が高良神と神功皇后である

ことが分かります。

 

彼らが再び、北部九州に戻ってきたのは、AD100年代の後半~200年代(2世紀後半~3世紀前半)です。

こちら(福岡)の神社では、おしなべて神功皇后を200年の人物としています。

彼女が卑弥呼だと結びつけているからこその年代。

彼らは筑紫で「九州王朝」を築いた(または、後継者となった)のです。

 

漢から贈られたという「漢倭奴国王」の印は、志賀島から出土しました。

彼は奴国(今の那珂川市一帯)の王であり、彼が祀られる志賀海神社(御祭神、綿津見神=安曇磯良神)がそこにはあります。

 

それは彼らの「九州王朝」に贈られたものかもしれません。

 

 

 

( つづく )

 

 




« 日本の真相 7 ~物部と御祭神*天火明命~(改訂版) | トップページ | 日本の真相 8 ~邪馬台国と物部氏~(改訂版) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 日本の真相 7 ~物部と御祭神*天火明命~(改訂版) | トップページ | 日本の真相 8 ~邪馬台国と物部氏~(改訂版) »