日本の真相 11 ~邪馬台国と奈良湖と岩戸~
(「日本の真相 10 の続き)
私が前世の夢で見た「古代の奈良の湖」について記載がありました。
以下、PDFの(日本の真相 3)より要約。
http://g-village.net/iyasaka369/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B83.pdf
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最近発掘された纒向遺跡では、大宮殿と思われる建物の跡が発見された。
柱の配置は、建物の中心を貫く構造であり、同じ構造が出雲大社である。
出雲は物部氏だから、邪馬台国が物部王国であること、
近畿に存在したことが裏付けられたのも同然である。
この遺跡の近くには、物部氏最古の神社、国内最古の神社と言われる
大神(おおみわ)神社がある。
ここは本殿がなく、三輪山を遙拝し、2本の柱に縄を掛けた鳥居の原型がある。
この鳥居の原型は、古代エルサレムの神殿と同じ構造であり、
三輪山はモリヤ山に相当する。
このような状況から、纒向遺跡は邪馬台国の重要な遺跡であることに間違いない。
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「古代の奈良湖」
三笠山(若草山)より南は琵琶湖の水が残っていたという。
(奈良盆地は元々巨大な湖であった)
三笠山から吉野までは琵琶湖の痕跡による湖あるいは湿地帯だった。
現在の熊野こそが狗奴国。
”狗奴=くな=くま”で、熊野に繋がる。
後に物部氏(尾張氏)と縁の日本武尊が討伐したのも熊襲で”くま”という言葉が
敵対する民族を象徴していると考えられる。
狗奴国は邪馬台国と同規模で南にあったと言われているが、
邪馬台国が奈良盆地に収まる程度の規模であれば、
現在の奈良盆地の南にある熊野の山岳地帯も同規模と言える。
魏志倭人伝に記載の様々な小国の位置関係や距離関係は、
象徴的に書かれたものと解釈すべきである。
狗奴国は邪馬台国に抵抗し、邪馬台国では湖水の向こうから襲ってくる
狗奴国の船を高台から見張っていたという。
ならば、この湖こそ、三笠山より南に残っていた琵琶湖の水に他ならない。
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この湖の風景は、私が前世の夢で見たものと同じ。
(「奈良 古代の湖」)
湖の北はどの辺りからかは分からないけど、南の端は耳成山辺り。
(大和三山が島となるような規模の水かさは、更に前の時代と何処かで見た)
(その夢が過去の記憶だとして)
過去のどの時期なのかは分からない。
雨が少ない年は、湿地帯となっていたよう。
南の端、耳成山の辺りに高床式の建物が一つあった。
居住する為のものではなさそうだったので、「見張り台」なのかもしれない。
でも、それよりも南には湖がなかった。
(見ていないだけなのかも)
三輪山の麓、湖にかからない場所に居住していたこともあるけども、
ニギハヤヒが奈良に来た後のことのよう。
(「古代奈良の夢 ~前世 4~」)にあるように、ニギハヤヒが来る前、
南から「人でないもの」がやって来て、度々、里を襲った。
(その夢の中で、それと対峙したのは、(少なくとも)大和三山よりも南。
その辺りは湖ではなかったけれど、膝くらいの低い草が生えていて、
人の住めるような地ではなかった。
もしかするとその辺りは湿地帯だったのかも)
熊襲で繋がるのが、福岡の伝承にある羽白熊鷲を始めとする「ヰルイ」。
ヰルイ・・・異類だとすると腑に落ちる。
人ではなかった。
敵対していたという「狗奴国」は、熊野(かもしれない土地の人)と
別かどうかは分からない。
しかし、熊野はスサノオ命を祀る土地。
福岡における「ヰルイ」がいた地だとは思えない。
大根地山にも雷山にも共通する、空に繋がるような爽快さ、清々しさは、
天神地神を祀った故だと思う。
思うに。
実際に敵対していたのは、「ヰルイ」であり、
「狗奴国」というものは、「ヰルイ」ではない。
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再び、上記のPDFから要約。
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「古事記での記述」
古事記での対応を考えると、
神武天皇が開いた大和朝廷を「ヤマト=邪馬台」とみなせば、
狗奴国は、熊野の荒ぶる土地神、熊野の土地。
(熊野の山で神武天皇らは巨大な熊に姿を変えた荒ぶる土地神によって
神罰を与えられ、軍勢もろとも一人残らず気を失って地に倒れ伏した。
これは、熊野の地は邪馬台国に対抗していたということ。)
そして、熊野にいた高倉下が一振りの太刀を持ってやってきて、
倒れている神武軍にそれを差し出すことにより敵は倒れ、神武は勝利を得た。
この太刀は布留御魂として石上神宮に祀られたが、実は草薙神剣である。
高倉下はニギハヤヒが高天原にいた頃に生まれた息子であり、
尾張の祖である。
高倉下命はかつて邪馬台国と和平を結んだ尾張氏=海部氏の
象徴となり、矛盾しない。
だから、勘違いしやすい部分ではあるが、尾張氏=海部氏は狗奴国では無い。
それは古事記で次のように象徴されている。
”神武軍が大和に進軍した時、ナガスネヒコの抵抗にあい苦戦する。
ナガスネヒコは天孫ニギハヤヒに仕えている。
しかし、ニギハヤヒは、神武がニニギの子孫であり、
天津神が気にかけているのがニニギの子孫だと分かると、
逆にナガスネヒコを討った。
神武は、ニギハヤヒを臣下に加え寵愛した”
これは、尾張氏=海部氏の祖先がニギハヤヒだという伝承に矛盾しない。
そうすると、ニギハヤヒに仕えて最後まで戦おうとしたナガスネヒコは、
尾張氏=海部氏が渡来して和平を結んだ、
後の邪馬台国となる民族(を象徴している)である。
ニギハヤヒと、
ナガスネヒコ(後の邪馬台国となる一族の象徴)は民族が異なるため、
ニギハヤヒはナガスネヒコを討って同じイスラエルの支族、
ニニギの子孫たるイワレヒコに帰順した(という話に置き換えている)。
*
狗奴国(熊野)と、ナガスネヒコ(が象徴する後に邪馬台国となる一族)は、
元は同じ民族だった。
ナガスネヒコ一族は、渡来したエフライム族(尾張氏=海部氏)、
物部一族に帰順したが、狗奴国はしなかった。
このことが狗奴国としては、異民族に従った邪馬台国は許せず、
それ故に険悪な関係だったのだろう。
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この辺りは、「象徴」なのだと思う。
ナガスネヒコという存在を見ていない。
(「ナガスネヒコ ~宿禰の始め~」)
神武(イワレヒコ)がニギハヤヒ命でもあるのならば、この一連の話は、
創作なのだと思う。
前に書いたように、
神話の「天の岩戸籠り」の天照大神が、大和の地(邪馬台国)を去った
ニギハヤヒ命とミカシヤ姫。
(住吉神と神功皇后)
↓
大和が「大いに乱れ」、
↓
九州から大和の地に来たことを象徴する
「天の岩戸開き」の天照大神が、(ニギハヤヒの子)応神(神武)。
「大いに乱れた」土地を鎮めたことが、
「ニギハヤヒ命に仕えていたナガスネヒコを討った」という伝承になったのかもしれない。
*
またそれと同時に、「ナガスネヒコとの戦いの話」は、
神武(応神)の正統性を説明する為のもの。
ナガスネヒコは、後の邪馬台国となる民族の象徴。
ニギハヤヒは、尾張氏=海部氏(エフライム族)の祖先であり、
かつて、ナガスネヒコ(を象徴とする一族)と和平を結んだ。
であるから、
ニギハヤヒ命の子である高倉下が持ってきた「布留御魂剣」と、
ニギヤハヒ命がナガスネヒコ(敵対していた一族)を従わせたことは、
神武(応神)の正統性を証明しているのだと思います。
*
「天の岩戸」で繋がることがありました。
「現人神社」がある那珂川市の「山神社」には、岩戸の伝承があります。
「岩戸の片方がこの場所に落ち、片方が奈良に飛んでいった」という。
ニギハヤヒ命が住吉の神であり、現人の神ならば、
それを受け継ぐ応神が、大和へ戻ったという話を象徴していること。
(二つの土地は繋がりがある)
また、那珂川には、住吉の神が「イザナギの禊」から生まれたという神話と同じ
地形と地名があること。
(「安徳台と高天原」)
神功皇后の伝承があること。
などは、偶然ではないと思います。
(「日本の真相 12 ~大和三山 ~」 へ つづく )
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