神功皇后 と 登山 と 裂田の溝 ~その2~
前回の続きです。
(地図はグーグルマップより)
西の8「雷山」、9「浮嶽」、(10「叶岳」)
8の「雷山」にも「中腹の層々岐野の草原で羽白熊鷲(ヰルイ)を退治する為の兵を集めた」と
いう伝承があります。
ですが、雷山は糸島市にあり、飯盛(10の下の印の山)・日向山系の峠を
越えた向こう側にあります。
7の「砥上岳」(または6の「大根地山」から)にいた神功軍が、
8の「雷山」に向かい、羽白熊鷲の為の兵を集め、また戻って来るわけはないのです。
道なりで、往復約114キロもあります。
「雷山」には、雷山神社の上宮が、その草原よりも手前にあり、
天神7代、地神5代を祀っています。
9の「浮嶽」(糸島)
神功皇后が山頂で三韓征伐の為の神事をした。
この二座は妊娠中に登るなど、あり得ません。
雷山の中腹の草原へ向かう道は細く、片足分も道幅がない場所が続きます。
一部、鎖道もありますし、這っていく程の急登もあります。
浮嶽は滑りやすく、急登が続きます。
トラロープ(あるとこでは)を頼って登るか、這って登るかの斜面です。
下山では、手がかりもなく、砂地の斜面で滑りやすいので、何度か尻持ちをつきました。
身重でなど、全くの問題外です。
10の「叶岳」は、西区にある山。
三韓進出のみぎり、この峰に願い、願いが叶ったから叶岳と名付けたとあります。
上まで登ったのか分からないのですが、ここも身重では無理。
* .
3の「宝満山」、1の「若杉山」
共に福岡市の東に壁の様にそびえる三郡山系の南と北に位置しています。
「宝満山」では、神功皇后が山頂付近でサイカチの木を植え、
三韓征伐から戻った後、再会できるようにと願いました。
今でこそ、正面登山道はよく整備されていますが、829mの標高があり、
下から上までほぼ石段で、かなり辛く大変です。
他の登山道はそのルートよりも荒れていて、ゴロ石だらけの道も続きます。
”その当時”は、正面も今よりももっと登りにくかったと思われます。
身重で登るなどあり得ません。
「若杉山」は、彼女が三韓征伐の前に訪れ、この山の綾杉の枝を持って出陣し、
戻ってきた時に枝がまだ元気だったので、香椎宮とこの山に分けて植えた
との伝承があります。
「この山の綾杉を手折り」の場所がどこかは分かりませんが、
今、杉の木が密集してる「綾杉」近辺までなら、身重でも行けないこともない。
ただし、頂上で神事をしたのなら、あり得ないです。
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4の「四王寺山」。
高良の伝承では、三韓征伐の前にこの山で祈り、それに応えた住吉神達が
現れたとあります。
(三韓征伐での船の上に現れたという記紀の伝承と違うのですが、
それは今は置いておいて)
宇美町側から今の車道沿いに入れば、難なく登れると思います。
南の11「脊振山」
神功皇后が三韓征伐の折、社を建てたという伝承があります。
(昔は脊振と言うと脊振山系の山々を差したそうです。
この一番高い山は「廣瀧山」と呼ばれていました)
上宮があるのは、今の脊振山。
本人が登っているのだとしたら、身重ではあり得ません。
北の福岡側からは急登です。
私が登ったルートの南の佐賀側から登る方が緩やかなのですが、
先ず、山頂までの気の遠くなるような距離を移動するだけでも負担大です。
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これは何を意味しているのか。
私の感覚では、体に全く問題がないとして身重で登るならば、
「四王寺山」「大根地山」「砥上山」「目配山」辺りならば、
100歩譲って登れなくはないかもしれないけれど、
他の山は全くあり得ないということ。
だけど。
どの山も確かに登ってる・・・。
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「雷山」に関してもう一つ。
羽白熊鷲を退治する為に中腹の草原で兵を集めたとありましたが、
前述の通り、大根地山近辺の「熊鷲」の為ではないことは明らかです。
ですが中腹の山に上宮を築き、天神7代地神5代が祀られている。
しかも祀った側の神功皇后が、そこに祀られていない。
これは「大根地山に祀られている神」と同じです。
ならば、言えることは、
”それ”は羽白熊鷲では無い、「別の物(ヰルイ)」。
確かに、そこにいたはずの「神が関与出来る」物です。
それらから言えることは。
神功皇后は「別の物」を退治する為に雷山に登ったが、
妊娠中ではない、ということ。
それらは、何を意味するのか・・・。
( つづく )
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