神功皇后 と 登山 と 裂田の溝 ~その3~
(「~その2~」の続き)
それらから言えること。
神功皇后は、山に登っている時は妊娠していなかったのです。
そこから、このように考えられます。
☆仲哀天皇との子を宿していなかった。
または、
☆仲哀天皇という存在自体、元からいなかった。
.
先に三韓へ行き、凱旋して出産してから山に登ったのならば、
山に登っている時に身重ではなかったことの理由になるのですが、
そうではありません。
山に登った理由のほとんどが、熊鷲関連以外は、
「三韓出征の戦勝祈願」なのです。
頑なに、「山での神事をしてからの、出征の後に出産」なのです。
三韓征伐は何度かあったという説もありますが、
山に登って「戦勝を願う為の神事」をしたのならば、
一度目の時に無いはずがありません。
. .
また、神功皇后の滞在期間、それも不可解に思います。
「古代史の復元」さんから、下の年表をお借りしました。
「神功皇后の年代推定」
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-6jinguunendai.html
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仲哀9年(332年後半)
春2月 仲哀天皇崩御
3月1日 皇后斎宮に入る。
3月17日 香椎宮から松狭宮に移る。
3月20日 層増岐野に行き羽白熊鷲を殺害
3月25日 山門県に行き、田油津姫を殺害
4月3日 肥前国松浦県訪問。香椎宮に戻る
9月10日 諸国に令して船舶を集め、兵を練る。
10月3日 新羅征伐に出港
12月14日 応神天皇生誕
神功摂政元年(333年前半)
2月 豊浦宮に移る。香坂・忍熊皇子が反乱をおこす。
3月5日 忍熊王殺害
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(上の年表は、日本書記の記述からだそうです。)
崩御(妊娠が分かった日)から出港まで、少なくみて210日~240日。
一般的に妊娠が分かってから、出産までは200日とされています。
「出港の時に産み月だったから、石を当て遅らせた」とあるので、
上記の年表は、それらの記述と同じです。
ですが。
「2月、豊浦宮に移る」とありますが、それは応神が生まれた後。
上の表の通りならば、その前に神功皇后一行は「ショウケ越え」を
しているはずです。
こちらにある「ショウケ峠」という名の道。
前回の地図では、1の「若杉山」の南にあるその峠道を、西から東へと
通ったことになります。
神功皇后が、ショウケ(竹の籠)に応神を入れて背負って、
越えたのが名の由来のその道。
上の日付の通りですと、生まれて2カ月経つか経たない内に、
その峠を越えていることになります。
まだ、首も座ってもいない赤子を籠に入れて、ショウケ峠を越える?
車で行っても、あんなに距離が長く、険しい道を?
そんなことはあり得ません。
あっと言う間にゆさぶり症候群になります。
大体、伝承が史実だとしたら、産み月に船に乗ること自体あり得ない話。
苦しくて動けませんよ。
今と違って、波の影響をもろに受ける小さな木造船ですし。
ちなみに、私は一番上の子の妊娠中に、引っ越しの準備で無理をしすぎて
(気をつけてはいたけれど)、予定日の一カ月前に早産になり、帝王切開になりました。
生まれた子は超未熟児一歩手前。
妊娠中に無理をすると、お腹の子が育たないのです。
今の医療技術があったからこそ、助かった二人の命。
今よりももっと、妊娠が命の危機に即繋がるそんな時代に、山に登るとか、
産み月に船に乗るとか、あり得ない。
現実ならば、何としても周りが止めるでしょう?
辻褄合わせをしようとして、色々おかしくなっていると思えます。
こちらに根を下ろして、よくよく「見れば」分かることなのに。
一度でも山に登れば、その生きた証を辿れば、分かることなのに。
なぜ?
・・・「そうすれば、分かるようになっている」としか思えません。
誰が・・・?
この先、少しでも近づけるような気がします。
.
*
今日、11月17日は、那珂川市の裂田の溝(さくたのうなで)の
ライトアップの日でした。
(前回の地図の12辺り。現人神社も同じです)
. (裂田神社)
裂田の溝は、神功皇后が指揮して造ったと言われています。
もちろん、手掘りであったでしょう。
何年もかかる大事業だったに違いありません。
本当に彼女が関わっていたのなら、とてもあの表の年月の中でしたとは思えません。
その水が潤した田のお米は、今まで食べてきた中で最高に美味しい。
そう感じるのは、もうここが私のふるさとになっているから。
ここは地域に根差した行事やお祭りが盛んです。
お祭りは神と人を繋げ、人と人を繋げます。
そういう土地の産土神は、その土地を守る力がとても強くなります。
産土神の加護を受けた土地の作物は、土地の人を守る力になります。
地産地消が良いのは、こういう理由もあるのです。
この地の産土神は、現人さん。
住吉の元宮です。
つまり、この地が住吉の「始まり」ということ。
住み良しの始めです。
「住吉」・・・。
そういえば、ここのとこ、登った山で聞こえた声がありました。
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