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2018年12月30日 (日)

日本の真相 15 ~前編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~

(「日本の真相 14 ~大物主神~」 の続き)

京都の葵祭について、記載がありました。
それは、「儺の国の星」にもあったのです。

日本の真相 4 から要約します。
http://g-village.net/iyasaka369/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B84.pdf

 

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<葵祭りについて>
京都で最も重要なお祭は葵祭りであり、
上加茂では御阿礼(みあれ)神事が、
下鴨では御蔭(みかげ)祭が行われる。

実は籠神社でも加茂に先立って葵祭が行われる。

加茂社では祭員が冠に葵の葉を付けるのに対し、
籠神社では豊受大神縁の藤の花を挿す。

籠神社での葵祭は御生れ(みあれ)の神事であり、これは名称的に
上加茂と一致する。

よって最も重要なお祭りから見ても、上加茂の加茂氏は海部氏・尾張氏と
同族と言える。

なお、藤は”不死”に通じ、”不死”とは”再生”、”復活”のことでもある。

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「儺の国の星」にも脊振の葵祭のことについて書かれてあります。

天智帝が京都に、脊振の葵祭を遷した。
葵祭の始まりは筑紫だとあります。

以下、真鍋大覚氏著「儺の国の星」(加茂の星)項より要約。
*************************************************************

「加茂の星」

天智帝は元(六六二)年壬戌に筑紫の長州宮に遷都し給うた。
長州宮からは青葉若葉に風薫る山た々みの彼方に脊振の頂きが眺められた。
天智帝には後に大和に御帰還後、六(六六七)年丁卯に山城の氏神なる
加茂の社に、筑紫と同じ葵祭を言寄せ給うたのである。

まさに天智帝は筑紫に行在所を奠(さだ)められたが故に、後の京都に
脊振と同じ葵祭を遷されたことになるのである。

(中略)

 筑紫の神々は畿内に遷座して故郷発祥の地を凌ぐほどの繁栄隆昌を
今に示している。

脊振神社は京都賀茂神社に、現人神社は大阪の住吉大社に生まれ変って
本家本元はまことに寥々たる廃れ方である。

神の心に人の心が添はなかった事は、その氏族が離散することが
大きな原因であったかもしれない。

加茂の神は元来は踏鞴の神であった。火と熱の神であった。
これがやがて次の代の天武帝の時に、大和に風神龍田、水神広瀬の
両宮に勅裁の祭事がしきたりに定められたのである。

賀茂とは一目の燕語たる Kana-muli(カナムリ)の倭約であったらしく、
その姿が足一騰(あしひとつあがり)と述べられた如く、楽に坐る時は
必ずどちらかの片膝を立てる先天的遺伝的体質がありましたが、
今でもこの坐り方はところによってはまだかなり見受けられます。


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長州宮跡と、「儺の国の星」にある写真には、「上梶原 平蔵」とあります。

 

Kamikaji03
                 (地図はGoogle Map)        
那珂川市上梶原。
今、小学校と中学校が建っている赤で囲んだ地区になります。

左側の裂田神社の側の緑が安徳台。
安徳台の上にも、古来から何度も宮が築かれてきた「上の原」と呼ばれる台地。
(「安徳台(迹驚岡・とどろきのおか) 福岡県」)

(文中にあった「現人神社」はその北)

長州宮から見ることができたという葵祭とは、どこであったものなのでしょう。

江戸時代までの「脊振」は、脊振山系一体のことを差しました。
今の脊振山は、「廣龍岳」と呼ばれ、その頂上は「上宮嶽」。
脊振神社がそこにあったからです。

今の脊振神社の下宮は、後の世に上宮から勧請されたもの。
              .

では、天智帝が那珂川の「長州宮」から見られたという葵祭りは、
脊振山頂でのことしょうか。

それはないです。
那珂川の長州宮から山頂は遠くて見ることができません。

それは、天智帝が滞在した、那珂川に違いないのです。

                 

那珂川の「葵祭」が脊振神社の為のものならば。
それはご祭神、市杵島姫の為の祭り。

市杵島姫が神功皇后の可能性があるならば、尚更です。

那珂川には神功皇后の伝承があり、彼女の夫とされる「住吉神」の始めの宮、
「現人神社」もそこにあるのです。

そこから分かったことがありました。

                       *

「卯の花神事」
                        
京都下鴨神社の葵祭の前に行われる「卯の花神事」は、
もともと奈良県三輪大神、狭井神社で行われていたものだそうです。

神旅 仏旅 むすび旅」(下鴨神社 葵祭の前の卯の花神事)」
のサイト。

また、「卯の花神事」は、下鴨神社と住吉大社が有名だと。

住吉大社の「卯の花神事」はかの宮の創立記念日にあるとか。
神功皇后が住吉大神を祀った日とされるのです。


二つの「卯の花神事」。
そして「加茂の葵祭」と「籠神社の葵祭」
住吉神と、神功皇后。

これらには繋がりがありました。
                                      

 

(「日本の真相 16 ~後編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~」 へ つづく)

 

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コメント

伊豆半島の南部は今でも賀茂郡で、伊豆諸島の神々は事代主の子供達です。
賀茂氏も海部氏も尾張氏も、もとは海人族カモしれませんね( ^ω^ )

なーまんさん、コメントありがとうございます^^

真鍋大覚氏の祖先の物部氏が、
鹿島の神官を務めていたともあります。
かなり広範囲に広がっているのですね。

この回にもありますが、カモ族は、
物部氏の中で踏鞴の作業をする人達(カナモリ)と
呼んだ事に始まるのだと思います。

カナモリが燕語(チベット語)ということは、
朝鮮経由で彼らが渡ってきた時には既に、
カナモリ(カモ)と呼ばれてる一派が一緒にいたのかも
しれないです。

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