日吉神社 ~日吉大社の元宮の一つ~
福岡県那珂川市の日吉神社。
最澄が比叡山の日枝大社に、猿田彦神を勧請した元宮になる。
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それをご由緒から知り、ここの神が日吉大社のもう一柱の神である大己貴神でもあると辿り着いたのだ。
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猿田彦命の名はない。
(他に、大山祇命、八雷神、菅原神、迦具土神、田心姫神、高淤加美神、闇淤加美神、手力雄神、宇賀魂神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、須佐之命、天照大神)
猿田彦神とそれらの神は同神なのだ。
故に名が無くても、この地は猿田彦神の地。
最澄はこのお社から「大己貴神」を感じとり、(比叡山の)日吉大社へと勧請したのは間違いない。
(その頃はまだ、周知の事実だったとした方が良さそうだ)
日吉大社のもう一つのお社のご祭神、大己貴神は三輪山より勧請された大物主神。
猿田彦神と大己貴神(大物主神)は同神。
(大物主を大国主へと改変、または同一神とみなされ、大国主=大己貴神なので、大物主=大己貴神となった)
(「結びの山 ~その14 日吉の神とニギハヤヒ命~」)
(「筑紫の神の真相 3」)
三輪山の大物主神は饒速日命。
その饒速日命は高良の神でもあり、また天御中主神も彼であった。
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彼が「高良の神」ならば、この地に彼の足跡がないか・・・。
そう思っていた。
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*注1 麻生隆延氏が、佐賀県の仁比山日吉神社からその三柱の神を勧請したとある。
仁比山神社の由緒には、844年慈覚大師が唐から帰った後、「日吉宮」の石額を発見し、朝廷に奏上。
比叡山の神威を感じた時の仁明天皇が比叡山の日吉大社の分霊を合祀し、朝廷の祈願所と決めたと。
最澄が九州より唐へ出発したのが804年。
亡くなったのは822年。
最澄が那珂川の日吉神社を比叡山の日吉大社へと「猿田彦神」を勧請したのは、慈覚大師よりも先の時代です。
最澄→那珂川の日吉神社から、比叡山日吉大社へ猿田彦神を勧請。
慈覚大師→比叡山日吉大社から、佐賀県仁比山日吉神社へ、天御中主神、大己貴神、日子穂穂出見神 を勧請。
麻生隆延氏→仁比日吉神社から、那珂川の日吉神社へ、天御中主神、大己貴神、日子穂穂出見神を勧請。
巡り巡って、最澄が那珂川の日吉神社から受け取った「神威」を垣間見たようだ。
( つづく )
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