魂須霊・むすび 1
脊振山系に残る山々の伝承。
これらは、二人の軌跡だったのです。
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①脊振山系の山の内、浮嶽、雷山、脊振には神功皇后の伝承が。
②基山、天拝山には五十猛命、宝満大神などが祀られています。
(地図はGoogleMap)
1が浮嶽、2が雷山、3が脊振、
4が基山、5が天拝山
7が大根地山
そして、6が朝倉(旧三輪町)の大己貴神社です。
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①の伝承 「天神五代、地神七代」
1の浮嶽から、6の朝倉まで、今の道のりで71キロ。
6の近辺で、神功皇后は「羽白熊鷲」を征伐したとあります。
2の雷山でその為の兵を集める根拠がありません。
(神功皇后軍は北から南下したともあるので、わざわざそちらには行かないはず)
(「脊振山系分割縦走 その3 ~雷山の鬼と神功皇后~」)
2の雷山と7の大根地山には、
神功皇后が祀ったという「天神五代、地神七代」を祭神とする社があります。
(「二つの伝承 6 ~大根地山 登山 (2)~」)
その上、その山頂や側の峠には「人でないもの」が出没したという伝承があります。
(大根地山にはずばり「神功皇后が羽白熊鷲を退治し、祀った」とある→
「二つの伝承 5 ~大根地山 登山 (1)~」)
これは神功皇后が退治して、天神、地神を祀ったということです。
これが、高良の伝承にある神功皇后のイルヰ退治。
二つのことは別々の時期に、別の場所で起こったのです。
1の浮嶽に登ったのは、2の雷山の「イルヰ」退治の為。
浮嶽の白龍の子、龍起を軍に誘う為です。
(「脊振山系分割縦走 その2 ~浮嶽の神功皇后~」)
また高良の伝承では、神功皇后と共に高良の神が「イルヰ」を退治したと
思われる記述があります。
雷山などの伝承では、高良の神が「安曇磯良」として、名が出てきます。
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②の伝承 「甕依姫と五十猛命」
4の基山、5の天拝山には、荒穂神社があります。
(「二つの伝承 2 荒穂神社 ~佐賀県三養基郡~」)
基山の側には筑紫神社(の筑前風土記)もあり、二つの伝承は同じものと推測されます。
(「二つの伝承 4 筑紫神社 ~福岡県筑紫野市~})
「基山の東、筑前と筑後の境に暗くて険しい坂(したくらつくしの坂)があり、
命つくしの神が通る人の命を奪っていた。
そこから<つくし・筑紫>の地名が生まれた」
その神を退治したのが、基山の荒穂神社では五十猛命。
筑前風土記では、甕依姫です。
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「したくらつくしの坂」
この①と②の伝承が7の大根地山で繋がります。
大根地山の麓の冷水峠は「九州の箱根」と言われた険しい峠でした。
それが、基山の東、筑前と筑後の境に暗くて険しい坂(したくらつくしの坂)。
命尽くしの神は、そこに居たものです。
(6の朝倉は、筑前と筑後の境ではありません)
大根地山の麓の冷水峠が、「したくらつくしの坂」ならば、
神功皇后は、風土記の「甕依姫」です。
伝承から、彼女は「五十猛命」と共に、それを退治していたことになります。
(詳しくは「二つの伝承 7 ~冷水峠~」)
「五十猛命」は、饒速日命であると辿り着きましたが、
こちらの研究でもその説が有力だそうです。
そうならば、「五十猛命」は、饒速日命。
彼女のまたの名は「甕依姫」です。
(詳しくは「二つの伝承 8 ~五十猛命と甕依姫~)」
一番上にある①と②の山々の伝承。
実は同じ二人のことを伝えるものだったのです。
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浮嶽、雷山、脊振とかなり急な山です。
身重では登れません。
これらの山だけではなく、脊振の反対側の地域まで伝承があります。
仲哀天皇が崩御してから、三韓征伐に向かうまでの
7ヶ月で回れる距離ではないのです。
(「神功皇后と登山と裂田の溝 ~その3~」)
神功皇后は身重ではなかったのです。
仲哀天皇の子も宿していませんでした。
・・・「神功皇后」という存在は、こちらの伝承から創られたものだったのです。
( つづく )
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