玉垂神社の現仁神 ~福岡県みやま市~
(前回の続き)
「玉垂神社」
こうやの宮から、南西に道なりに2.4キロ。
みやま市瀬高にその宮はあった。
この辺りには特に玉垂神社が多いのだが、ここには。
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初めに入った方の鳥居には「荒仁神社」の扁額があった。
あらひと神社と読める。
いくつかのお宮が並んでいた。
「玉垂神社の大楠」
向こうに鳥居がある。
あちらが正道のよう。
まずは目の前の摂社にご挨拶。
「荒仁神社」
神紋には「三」。
もう一つの鳥居の方へ。
こちらには「玉垂神社」の扁額。
玉垂神社拝殿。
由緒書きがあった。
ご神祭は、武内宿弥、春日大神、住吉大神
創建は、延久二年(1074年)
境内には荒仁(現仁)神社、大神さん、六体地蔵、観音様、若宮さん、
天満宮、天御前社、社日さん、大日如来堂、神馬石像が祀られているとのこと。
お賽銭箱が奥にあるので、靴を脱いでそこでご参拝。
拝殿の中には「五七桐」と「五三桐」の神紋。
「五七桐」紋は神功皇后が使った紋でもあった。
高良玉垂宮の神幸祭の時に見た、「住吉神」の兜にあった神紋も五七桐。
(「高良大社*神幸祭 ~福岡県久留米市~」)
「五七桐」について書かれてあるサイト。
「お役立ち!季節の耳より情報局」
http://kisetsumimiyori.com/kirikamon/
かつて桐紋は天皇家も使用。
鳳凰が桐にとまり、声を上げると「聖王」が現れるという中国の伝承から、
聖なる植物とされてきた、と。
その中でも五七紋は、天皇家が使った最上位の紋。(サイトより要約)
この一帯に数多ある玉垂神社。
ここにはかつて、神功皇后像も安置されていたそうだ。
高良の神と神功皇后の関わり・・・。
夫婦だったという高良の伝承通りならば。
高良の神は「住吉神」でもある。
高良玉垂宮のご祭神、高良玉垂宮、八幡大神、住吉神は同神。
その住吉神も「五七桐」紋ならば、彼自身、神功皇后と同じく、天皇家に連なる者なのでは?
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その住吉神の元宮は那珂川市にある「現人神社」-あらひと神社。
お宮の扁額には「荒仁神社」の文字があり、ご由緒には(現仁・あらひと)とわざわざルビがあった。
「仁」とは、もともと人間の姿を現す象形文字であり、
(古代においては、他部族の者は人ではないから)
自分の身近にいる親しい間柄の「仲間」、または「二人の人と人との間の愛情の意味」になり、
これが儒教の「仁」と同じ意味でもある。(コトバンクより)
現人神社の現人神である住吉神は、神功皇后の為に人の姿で現れた唯一の神。
現仁という言葉が相応しいものに思った。
また「三」の神紋は三島の三(オリオン座の三ツ星)は、
饒速日命を祀る宮の紋でもある。
(三ツ星は、住吉神も表しています)
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もしかして・・・。
ここに来て思ったことがあった。
いつの時代かまで、北部九州にあった彼ら「高良神と神功皇后」と今される人達の伝承は、
「ちゃんとした形」で伝わっていたのではないか。
それに上書きされ、取り替えられ、ほかの物に組み込まれていったのでは。
(実際、高良大社にはほぼ正しく伝わっていた)
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このお宮から出た後、宮の前で畑仕事をされてた年配の方にお会いした。
「ご参拝に来ました」というと何処からと言われたので
「那珂川市・・・背振の向こう側です」と答えると、
すごく感謝されてしまった。
「よお来なすったねぇ」と。
車に乗った後も、わざわざ車道に出て見えなくなるまでお見送りしてくださった。
土地の人にとても愛されているお宮。
なんだか、とても嬉しくなった。
また来ます!
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