卑弥呼と神功皇后 2
ずっと前もこんなタイトルで書きました。
(「卑弥呼と神功皇后」)2014年1月30日。
5年と5ヵ月前です。
あれから分かったことをまとめます。
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二人は同一人物。
卑弥呼は「ヒミカ」。
彼女は日甕(ヒミカ)。
日の神を祀るもの。
神功皇后が日甕であり、
饒速日命の后とされる三炊屋(ミカシヤ)姫です。
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< 日甕・ヒミカ ~筑紫の甕依姫~ >
(「二つの伝承」その1~その9)
筑後国風土記の中に「甕依姫」という名があります。
筑紫の名の元になった「命つくしの神」を鎮めた者です。
「筑紫神社(筑後国風土記)」と、基山の麓の「荒穂神社」にも同じような伝承があり、
二つの神社の伝承は同じ物だと分かりました。
さらに、その「命つくしの神」が現れたという峠の記述から、
大根地神社(大根地山)の神功皇后の伝承とも一致しました。
(「二つの伝承 7 ~冷水峠~」)
神功皇后が退治したという羽白熊鷲(ヰルイ)が、「命つくしの神」です。
つまり、その伝承は神功皇后の話であり、彼女が二つの神社に祀られている「宝満大神」です。
「宝満大神」は、宝満宮竈門神社の神。
ご神祭は、玉依姫、神功皇后、応神天皇。
まさにその名がありました。
玉依姫とは、神の魂の依り代となる者(巫女)の称号。
彼女も神の依り代、玉依姫です。
故に、筑紫神社(筑前風土記)の「宝満大神」である甕依姫は神功皇后です。
(甕・ミカは、神への捧げものを入れる器の意味)
では、二つの神社に宝満大神と共に祀られている「五十猛命」。
これはだれか。
高良の伝承には、ヰルイ(羽白熊鷲)を神功皇后と高良の神が
共に退治したとあります。
共に退治したから、一緒に祀られているのです。
つまり、「五十猛命」とされてる者が高良の神。
では、高良の神とは?
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< 筑紫の五十猛命 >
(「二つの伝承 8 ~五十猛命と甕依姫~」)
荒穂神社と筑紫神社に祀られている神々の名は、(後の合祀と思われる瓊瓊杵尊と坂上田村麿命を除いて)
荒穂神社のご祭神、鴨大神、八幡大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命、宝満大神。
筑紫神社の、筑紫の宮・白日別神(しらひわけのかみ)「筑紫国の国魂神」、五十猛尊(スサノオ尊の御子神)、宝満大神。
(筑紫の国魂は、高良神)
宝満神以外は「饒速日命」の別名です。
では、神功皇后と饒速日命がヰルイを退治したことになります。
その饒速日命が高良の神ならば、神功皇后と高良の神が「共に退治した」という高良の伝承の記述は一致します。
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<高良の神・住吉神は、饒速日命>
高良大社の神職さんによると、(伝承の)「神功皇后を助けた神は、イソラ神」
そして、「イソラ神とは住吉の神」とのこと。
高良神=安曇磯良神=住吉神です。
饒速日命が高良神ならば、住吉神も彼のことになります。
また、高良山は物部氏の勢力地であり、彼らの祖神は饒速日命です。
高良大社に祀られている、高良の神は物部氏の祖神である彼で間違いありません。
そのことも一致します。
高良の神と神功皇后は、夫婦であったと高良の伝承にはあります。
それは、高良の神(住吉神)が饒速日命であるなら、神功皇后はその后であった人ということです。
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<月神・高良神>
(「神の鉾」その1~その7)
福岡県久留米市にある「高良大社」に伝わる「高良玉垂宮神秘書」。
高良神・住吉神でもある磯良神は、月神ともされています。
二つの海の満ち引きを操る珠「干珠・満珠」を持ち、使うことができる故です。
(月の作用と同じ)
<伊勢の外宮のご祭神は、籠神社から来た月神>
籠神社の神は、月神であり、磯神と呼ばれ、「潮満玉と潮干玉」を有していたそうです。
その記述が、高良神である安曇磯良神と一致します。
磯神は、京都丹後にある籠神社の神の名。
ご祭神・天火明命。
饒速日命です。
磯神(月神)は、伊勢神宮は元々、磯宮と呼ばれていたことから、
内宮の神が磯神であったのでしょう。
伊勢神宮の内宮に祀られていた神は、饒速日神であったのです。
(「二つの伝承 9 ~日の神 と 月の神~」)
饒速日神は、月神であり、日神であるのです。
饒速日命には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という名があります。
彼こそ、日神・天照神。
久留米や宮若市には、彼を天照として祀る神社もあります。
(「伊勢天照御祖神社 ~福岡県久留米市~」(高良の地が物部氏の拠点であったことの記述)
(「天照神社(天照宮) ~福岡県宮若市~」)
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<日神・磯神・石上神>
高良の神は安曇磯良神、磯神(いそのかみ)です。
それは、奈良の石上神宮のご祭神・布留神と同神。
かの神も饒速日神です。
石上神宮も物部氏の祖神を祀る宮でした。
また、福岡県みやま市には、こうやの宮(磯神物部神社)があり、
七支刀は元々こちらにあって、石上神宮に奉納されたという説があります。
かの地は邪馬台国の候補地とも言われています。
側の玉垂神社には、那珂川市にある住吉神の元宮「現人神社」と三島神社を彷彿とさせる、
「荒仁(現仁)神社の扁額」と「三」の神紋がありました。
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「現人神社」の神は住吉神。
奈良の「三島神社」の神は、布留神。
どちらも饒速日命です。
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那珂川の裂田溝(さくたうなで)は、神功皇后が指揮して造った水路です。
それは神話では、三韓征伐の際に助けられた住吉神がおわす社の神田に水を引く為。
そこに、かの神がいたのです。
また、那珂川に猫城があり、高良の神が若いころにいたと高良の伝承にあります。
猫城は、根(尊い貴人、神)子城。
(「儺の国の星」には、<古代、猫城を北の端として湖となり>という記述があるので、
上記のリンクの1の場所が高良の神の猫城か)
那珂川には、住吉神社の元宮の現人神社と、日吉大社の元宮「日吉神社」もあります。
最澄がこの地の「猿田彦神」を比叡山の日吉(日枝)大社へ勧請したのです。
(「結びの山 ~その14 日吉の神とニギハヤヒ命~」)
日吉大社には(日吉大社の)二つの宮の神は同じとあるので、猿田彦神と大己貴神(饒速日命)は
同神だと思ったのですが、神社庁の記録には那珂川の日吉神社の神も「大己貴神」となっていました。
日吉神社の神も饒速日命でした。
(「日吉の神は大己貴神 ~那珂川市 日吉神社~」)
またこの地には、岩戸という地名と、イザナギ神がみそぎをした名と地形があります。
みそぎで生まれた中に、住吉神と天照神の名があります。
(「禊の地と真の道」)
(「「儺の国の星」 ~岩戸~」)
猿田彦の生誕地ともされています。
これらは、かの神が名を変えていたとしても、すべてここで「生まれた」ことを表しているのでは。
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< 新嘗祭の住吉神 >
瞑想中に見た「現人神社」の神様から、住吉神が饒速日命でありました。
新嘗祭は、饒速日命の力?を受け継ぐものなのです。
(「新嘗祭 と 住吉神 と ニギハヤヒ ~その1~」)
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やはり、天照神(日神)が饒速日命。
彼が高良神・住吉神が彼ならば、神功皇后は彼の后であるミカシヤ姫です。
櫛甕玉比古の名と対になる名は、櫛甕玉姫。
筑紫の伝承の「甕依姫」はそれを表しています。
彼女が、日の神の巫女、日甕(ヒミカ)。
その他にも饒速日命(住吉神)と神功皇后との関わりを示すものがたくさんありました。
<奈良の地での一致>
(「山陵の玉依媛」)
<那珂川の長州宮の葵祭と京都の葵祭>
(「日本の真相 15 ~前編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~」)
また、神功皇后と卑弥呼の一致するものに「トヨ」の名があります。
(「魂須霊 6 ~物部の祖神 * 饒速日命~」)
もしも、彼女がミカシヤ姫であるなら、仲哀天皇の存在自体が彼女とは繋がりません。
彼女は、奈良で饒速日命と出会ったはずですから。
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