卑弥呼の墓 その7 ~再び姿を現す神~
(「卑弥呼の鏡 その6 ~同じ時を生きる~」 のつづき)
二人の伝承地の一つ・福岡県那珂川市。
ここには、<二つの元宮>と<禊の地>があります。
「現人神社」(「現人(あらひと)神社 福岡県」)(住吉の元宮)
「日吉神社」(「日吉神社 ~福岡県 那珂川町~」)(日吉の元宮)
二つの宮の御祭神は饒速日命でした。
(「現人神社の武藤さん」)
(「新嘗祭 と 住吉神 と ニギハヤヒ ~その2~」)
(「結びの山 ~その14 日吉の神とニギハヤヒ命~」)
(「日吉の神は大己貴神 ~那珂川市 日吉神社~」)
饒速日命が住吉の神であり天照であるから、那珂川が「イザナギの禊の地」なのです。
住吉神の元宮「現人神社」がそこにあるからこそ、その神話が創作されたのです。
(「安徳台と高天原」)
(「「儺の国の星」 ~岩戸~」) (18/07/31)
(「岩戸開き その4 ~岩戸~」) (18/04/16) *1
(「那珂川は饒速日命(天照・住吉・高良の神)の生誕地」)
(*筑前風土記にも「禊の地」として記載されていました)
神話の「真の道」もここにあります。
(「結びの山 ~その11 天孫降臨 ~」)
(「禊の地と真の道」)
「真の道」の先、筥崎宮の宮司さんもご存じだというその道。
那珂川には「岩戸」もあります。
(「結びの山 ~その9 天岩戸 ~」)
ここの天の岩戸の伝承は、「奈良」と結びつきます。
「戸の片割れが奈良に飛んだ」
その伝承は、ここの神(天照)が奈良と繋がりが強いことを意味します。
(饒速日命が奈良へ行き、ミカシヤ姫(神功皇后)と共に戻ってきたとみています)
*
これら(「その1」からのこと)全ては、こじつけであり、偶然でしょうか。
自分はそうは思えません。
*
*1の(「岩戸開き その4 ~岩戸~」) (18/04/16) を書いていた頃は、
まさか二人は同じ時代ではないだろうと思っていました。
もしかすると「転生では?」とも。
今は確信しています。
住吉神と神功皇后。
彼らは饒速日命と、ヒミカと呼ばれていたミカシヤ姫です。
*
ならば、神功皇后の夫は仲哀天皇ではありません。
彼ら(饒速日命たち)は奈良で出会っているはずです。
(「日本の真相 1 ~物部王朝~」)の途中まで言われてたように、
それら以前がすべて創作か・・・。
それはさすがに無いかもとも思います。
ならば、これらを「神功皇后の伝承」として、神話の中に埋め込み、辻褄を合わせたのか。
*
なぜ、饒速日命を最初の天皇にしなかったのか。
それは「神とも思えるほどの力(物か人)」を持つ彼らと、繋がりがないからでは。
そもそもその力は、血脈と関係なさそうです。
その答えは、現人神社にありました。
<現人神は、国の大事の時、再びこの世に姿を現す神>
伝承ではそう語られています。
「再びこの世に姿を現す」
彼らは生まれ変わりをする神なのです。
現人神・饒速日命は年神(大歳神)でもあります。
年神は年始に赤子の姿で現れ、年末に翁の姿になるという、神唯一の「生まれ変わる神」。
前の世で、この世に「在る」時からそれを知っていたからこそ、
「始まり」のこの社にしっかりと刻まれているのです。
・・・それ以外に、考えられません。
伝えようとしているのです。
彼らは、自分らは再びこの世に姿を現すと。
*
「卑弥呼の墓」
それは奈良にもあります。
奈良県奈良市山陵町の神功皇后陵(今は五社神古墳)。
そこは、トミの里でした。
(「夢顕現 その1 ~トミの里~」)
その地は、饒速日命、ミカシヤ姫の住まいがあった地です。
神功皇后の伝承もそこにあります。
ここが空っぽだとも思えないし、私の心の拠り所であったこのご陵さんが、
彼女と関係ないとも思えません。
ただ、この時点で一つ分かることは、奈良と福岡、
その両方とも彼女のふるさとです。
*
・・・もしも彼女が彼らなら。
<国の大事の時・・・>
私が見た「燃え上がる東京」
この時に、すべて繋がるのです。
(「未来の記憶 ~前世 5~」)
.
( つづく )
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こんばんは!
那珂川に岩戸があるのならば、若松の戸明神社も突拍子も無い話ではありませんね。
しかし、福岡と奈良・・・どちらに邪馬台国があったのかな。
吉野ヶ里だったりして。
投稿: FUJIKAZE | 2019年12月 3日 (火) 20時26分
FUJIKAZEさん、こんにちは^^
若松の戸明神社行ってみたいです^^
吉野ヶ里は無さそうですね~
古代は今よりも水位が上がっていました。
吉野ヶ里辺りは、玄界灘と有明海を繋ぐ水道があったそうで、
大雨になったら、しょっちゅう洪水に悩まされていたかもしれません。
今の人たちが思うよりも、行動範囲は広かったと思います。
「邪馬台国・ヤマト」が<王のいる国>の意味ならば、
時期によって、あちこちにあったかもしれませんしね^^
古代奈良は都を造るのに最適な場所だったようです。
「山に囲まれた盆地の地形が、天然の要害であった」
とは、奈良で出会った郷土史研究家の方の言葉です。
当時、稲作に適した安定した湖もありました。
https://misa-kazabana.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-2ee7.html
神話でも、饒速日命もその「楽園」地を求めて、「アマノトリフネ」で
わざわざ向かっているので、奈良も邪馬台国だと思います。
奈良では三輪山の麓がそうではないでしょうか。
投稿: 弥沙 | 2019年12月 4日 (水) 11時38分