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2020年3月28日 (土)

神功皇后の伝承地 10 ~織姫と市杵島姫と神功皇后~

姫古曽神社の高良大神は、筑後国一之宮の高良大社の神。
饒速日命。

かの社にはもう一柱の神の名がありました。

市杵島姫です。

その名について、以前何度も触れました。

(「市杵島姫の名の意味 ~斎星姫・蘇る神~」)


市杵島姫は、<斎島姫>
星の神を祀る者。

古来、星と島は同義語でした。

         *

市杵島姫は、神話では大国主神の后とされます。
また、籠神社の伝承では、御祭神、彦火明命の后。

大国主命、籠神社の彦火明命は、饒速日命です。
(「日本の真相 20 ~神・神功皇后の分魂~」


京都の葵祭、下鴨神社の卯の花祭りから、住吉の神と神功皇后の関わりと、
下鴨神社の神、加茂建角身命も饒速日であり、玉依姫が「神功皇后」であることが分かりました。

福岡の宝満宮竈門神社の御祭神には、玉依姫と神功皇后が共に祀られていること。
(「日本の真相 15 ~前編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~」)

(「日本の真相 16 ~後編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~」)



饒速日命である高良玉垂神と、神功皇后の名である息長垂姫の名の繋がり。

(「魂須霊 3 ~高良玉垂神と息長垂姫の名の意味~」)


籠神社の秘伝書から、彦火明命の后が市杵嶋姫であり、又の名を天照(の巫女)。
彼女が卑弥呼の可能性があること。
彦火明命が饒速日命なら、卑弥呼の鏡が「十種神宝」の鏡である可能性が高いことが分かりました。

(「卑弥呼の墓 その5 ~卑弥呼の鏡~」)

                 *

「住吉三神と宗像三神」

以前、宗像神社で<<たぎりひめ>>と聞こえたのですが、
これは御神祭、たごりひめと、たぎつひめと、いちきしまひめの内、
「たごりひめとたぎつひめ」が一緒になった名のような気がしました。

もしかすると、「三神」と言われている者は、一人を表していることなのかもしれません。

(「宗像大社 (福岡県)」)

同じように、住吉三神も一人を表しているのかも。
饒速日命、ただ一人を。

        *

まだまだ、以前の記事に二人の関わりについて記しました。
このお社にも「高良大神と市杵島姫」。

二人は饒速日命と、彼の后「ミカシヤ姫」です。
彼女が神功皇后ならば、ここも彼女の伝承地の一つです。

          *

「棚機姫とは」

では、下記の媛社神社の棚機姫は市杵島姫であり、ミカシヤ(三炊屋)姫です。
(「神功皇后の伝承地 5 ~媛社(ひめこそ)神社~」)


そう言えば、「儺の国の星」には、炊屋(かしきや)姫 は織姫のこととありました。

織姫を雉鳥石星(かしわのほし)或は梶葉星(かぢばぼし)と言う。
織女を志摩星或は斯和星(しわのほし)と言う。
”かしきやぼし”の略と思われる。

いずれも女王、或は后妃であって専ら海と空の天気の
託宣を行う巫人のことであった。

              (「儺の国の星」より抜粋)
(「「儺の国の星」 ~炊屋星~ミカシヤ姫の名の意味」)

ミカシヤ姫の名前、そのものが織姫を表しているのでしたね。


では、「ヒメコソ」の神社に祀られている社の神は、
饒速日命と織姫であるミカシヤ姫。

それは高良神(住吉大神)と、神功皇后に間違いないようです。


*(姫古曽神社には、後に棚機姫も合祀されています。
  これは、この社の玉依姫が棚機姫であることを表し、
  竈門神社の御祭神、玉依姫(と神功皇后)も棚機姫であり、ミカシヤ姫であることに繋がります。)


 

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2020年3月22日 (日)

神功皇后の伝承地 9 ~姫古曽神社の神の名は~

姫古曽神社には高良大神が祀られていました。

田川の現人神社の「ツヌガアラシト」が追ってきたという姫の名が「ひめこそ」であり、
それが「ツヌガアラシト」を示す暗喩である。
         ↓

媛社神社」の御祭神の一柱「磐舩神」は饒速日命である。
         ↓

「姫古曽神社」の御祭神は、高良大神。
         ↓

高良大神は、饒速日命。

やはり繋がりましたね。
高良大神と共に祀られている神の、住吉大神、八幡大神は同じ神です。

繋がるからこそ、彼以外ではないのです。

               *

<「肥前国風土記」の神>

肥前国風土記にあった「山道(やまじ)川」が今の山下川。
その西岸に荒ぶる神がいて、道行く人の半分を殺していた。

(「神功皇后の伝承地 6 ~媛社神社と荒穂神社の伝承と二つの風土記~」)

その場所がこの地だと言うのですが・・・。Dsc_1135

この辺りはとても広い平地なのです。
(当時は北の玄海(博多湾)と有明海が繋がっていたので、今よりも水路は広かったはずなので、
 道というより、水路を渡る人が多く亡くなっていたということかもしれませんが)

わざわざ、「荒ぶる神」のいる場所を通るでしょうか。
避けて通ればいい話。
数キロ遠回りをすれば安全な道があるはずですから。

それがここが「荒ぶる神」が「史実」としていた場所ではなく、
その神が「イノチツクシ」の神のことではないかと思った理由です。

「荒ぶる神」は、「鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)という険しく狭い坂」
に出た「イノチツクシ神」。
そこは「冷水峠」。

(「二つの伝承 7 ~冷水峠~」)

長い間、九州の箱根と言われていた程の難所は、この一帯ではここにしかありません。

その「イノチツクシ」の神が、退治した方の神を「筑紫の神」と祀るようになった。
それが「筑紫神社」です。

御神祭の筑紫の国魂は、筑後国一之宮「高良大社」の御神祭である高良の神。
(一之宮に祀られている神が、国魂の神であるはず)

高良の神は、物部氏の祖神である饒速日命。

だから、ここに高良神が祀られているのです。

上記にもありましたが、住吉大神、八幡大神は同じ神です。

(「神の鉾 3 ~安曇磯良神~」)

(「神の鉾 5 ~天照の分御霊~」)

(「卑弥呼の墓 その3 ~ 高良神と饒速日命~」)

(「日本の真相 19 ~神・饒速日命の名~」)

この社には、もう一柱の神の名がありました。

市杵島姫神です。


( つづく )

 

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2020年3月19日 (木)

神功皇后の伝承地 8 ~もう一つの「ひめこそ神社」~

「姫古曽神社」

もう一つのひめこそ神社です。
「媛社神社」からほぼ西へ、4キロ。
佐賀県鳥栖市姫方町
Dsc_1135

ここも川の側にあります。

Dsc_1134

Dsc_1107 

Dsc_1110 

Dsc_1113

Dsc_1133

拝殿です。

Dsc_1114

御祭神は、市杵島姫
     八幡大神、住吉大神、
     高良大神、菅原道真 

 当社の原初祭神は、織女姫 (たなばた姫)であった。
 このいわれは「肥前国風土記」姫神郷の段に詳しい。
  時移りて弘仁二年(811)時の村長某が豊国宇佐八幡宮の分霊を
 ここ姫方の地に勧請、先づ徳丸というところに行宮を建てて祀り、
 のち現霊地に社殿を建立して奉還、住吉大神、高良大神を合祀
 して八幡宮と稱(称)し、姫方村の氏神とした。
                    (上の石碑から抜粋)

Dsc_1125

境内は広く、三角点までありました。
小さいですが山です。 

Dsc_1123 

ここにその彼らの名がありました。

「肥前国風土記」にあった「荒ぶる神」がいたという場所です。


( つづく )

 

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2020年3月17日 (火)

神功皇后の伝承地 7 ~姫社神の正体~

「ひめこその神」

その神の名を、ごく最近参拝したお社で目にしてました。

牛斬山の麓にある「現人神社」です。
(「もう一つの現人神社 1 ~牛斬山の麓の社~」)

御祭神の名は「都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)」(別名・天之日矛)

この神は、意富加羅国(おおからくに)の王子で、新羅の姫神(比咩語層神・ヒメコソノカミ)
の後を追ってこの地に来たと、社の由緒書きにありました。

境内には猿田彦大神の庚申塔と猿の使いの伝承がありました。
それらから、彼も饒速日命ではないかと辿り着きました。
彼が那珂川の「現人(あらひと)神社」の神でもあるならば、社名が同じなのは必然になります。
(「もう一つの現人神社 2 ~饒速日命の足跡~」)


そこで「媛社神社」の存在を思い出したのです。
(御勢大霊石神社の側にあるとは行くまで知らなかった)

               *

*「媛社神社の二柱の神」

「媛社神社」には二つの扁額があり、その一つには並んで     
「棚機(たなばた)神社」と「磐舩(いわふね)神社」と記されてありました。

磐船の神は、饒速日命です。
「天磐船に乗り、北部九州から大和へとやってきた」ということから、
航空、航海の神とされています。
奈良の矢田坐久志比古神社、石切劔箭神社にも祀られていました。
(「前世と石切劔箭神社と矢田坐久志比古神社 その2」)

               
「媛社神社」の案内書にもその名がありました。
案内書には、「棚機神」は、万幡秋津師比売命(よろずあきつしひめのみこと)。
「姫社神(ひめこそしん)」は、饒速日命と。

 この筑後一帯を土着し、後に豪族となった物部一族の祖神。
 天照大神の御子 天忍穂耳命と万幡秋津師比売命との子。
 船の神、海上交通の神として信仰されている。
 *この大崎は、太古の時代、宝満川の河口ないし有明海の奥深いところに
 突出した大きい岬であり、船を唯一の交通手段とした古代人にとっては、
 このみさきに海上交通守護、船の神である饒速日命を祀ったと考えられる。
                    (案内書より要約)

                *

磐船の神は、饒速日命で間違いありません。

牛斬山の「現人神社」の「新羅の姫神」の方がヒメコソノカミというのは、
彼へと導く暗喩なのかもしれません。

                *

また、彼が饒速日命ならば、「肥前風土記」の伝承が解けます。
「荒ぶる神」は、「命尽くし(イノチツクシ)」の神。
その話は、筑紫神社の由来譚であり、筑紫の神のことを表します。


<筑紫の国魂である高良の神>(筑後国一宮の高良大社
<那珂川の現人神社の神である住吉神>(全国の住吉神社の元宮)
<那珂川の日吉神社の大己貴神(猿田彦神)>(日吉・日枝大社の元宮の一つ)
<田川郡香春町の現人神社のツヌガアラシト(天之日矛・アメノヒボコ)>
これらの神はすべて、饒速日命。

それを証明してもらったようでした。


ならば、「天忍穂耳命と万幡秋津師比売命 」の子というのは違います。
饒速日命は、須佐之男命(スサノオ)の子です。
ARIONもそのように告げていました。
彼はフルであり、布留の神。
奈良の石上神宮の神でもあります。
筑紫神社(筑後国風土記)と荒穂神社の御祭神「五十猛神」は、
イソノカミの響きから同一とされたのでしょう(意図的かも)。

           *

では、彼と一緒に祀られている「棚織姫」は、母ではありません。
母ならば、七夕の伝説が生まれ、二人に当てられることはないでしょう。

もう一つの「ひめこそ神社」にその答えがありました。
彼の名とともに。


( つづく )

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2020年3月15日 (日)

神功皇后の伝承地 6 ~媛社神社と荒穂神社の伝承と二つの風土記~

媛社(ひめこそ)神社には伝承がありました。
「肥前風土記」に記されてあります。

山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がおり、道行く人のうち半分を殺してしまいました。
そこで荒ぶる神が祟る理由を占うと、「我が社を造って、筑前国宗像郡の人である珂是古(かぜこ)
に祭祀を行わせよ。そうすれば、荒ぶる心は起こさない」という結果がでました。
珂是古は幡を掲げて祈祷し、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風に飛ばされて、神のそばに落ちよ」

といいました。
すると幡は風に飛んで筑後国御原郡の姫社の杜(もり)に落下し、再び飛んで山道川のほとりに
戻ってきました。また珂是古は機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
 これで神の場所と、神が女神であることを知った珂是古が祭祀を行い、
人々が当地を安全に通れるようになりました。ここから、この地を姫社(ひめこそ)と呼んでいます。
                      (神社で頂いた案内書より抜粋)

この伝承によく似ているものがあります。
(「二つの伝承」にまとめてあります)

*基山の麓にある「荒穂神社の伝承」
  昔、木の山(基山)の東に荒ぶる神(鬼)がいて、往来の人が
  命 を落とす「命尽くし(筑紫の名の起原)」ことがありました。
  それを退治したのが五十猛神。
    (「二つの伝承 2 荒穂神社 ~佐賀県三養基郡~」)


*筑紫神社の伝承(筑後国風土記)

 祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。
               (以下、筑後国風土記)

   昔、こ(筑前・筑後)の国境(鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)という険しく狭い坂)
   に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。
   その数は極めて多かった。そこで「人の命尽の神」と言った。
   筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫を祭司として
   まつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。
   これを持って「筑紫の神」と言う。(
Wikipediaより)

    (「二つの伝承 4 筑紫神社 ~福岡県筑紫野市~」)

    (「二つの伝承 7 ~冷水峠~」)

この「二つの伝承」から分かったことです。
*荒穂神社の伝承の、人々の命を取ったという荒ぶる神が「イノチツクシの神」。
 それを退治したのが「五十猛神」。

*「筑紫の国魂」は、高良大社の神。

*筑後国風土記では「荒ぶる(イノチツクシ)神」を鎮めたのは「甕依姫」。

二つの伝承は同じであり、かの神は饒速日命。
筑紫での五十猛神は、名を変えられた彼。
退治した方の神を「ツクシの神」として祀るようになったのです。
(筑紫の神の名の由来譚)

またこれらの伝承と御祭神から、筑紫の国魂である高良の神と、「甕依姫」が共に行動し、
「ツクシノカミ」を退治したと分かりました。


*「甕依姫」

ツクシノカミが出たという鞍韉盡坂(したくらつくしのさか )は、
九州の箱根とも言われていた深く険しい谷の「冷水峠」。
その側にある大根地山にある大根地神社の伝承から、「甕依姫」は神功皇后。

また、二つの神社の御祭神からも、それが「宝満大神」であり、
宝満宮竈門神社の御祭神、神功皇后だと分かりました。

「神功皇后と高良の神は夫婦であり、共にイルヰを退治した」
という高良大社の高良玉垂宮神とあるのが、「荒ぶる(イノチツクシ)神」退治。
 (「二つの伝承 8 ~五十猛命と甕依姫~」)



 

                *

媛社神社の伝承に戻ります。

「山道川の西岸に荒ぶる神がいて、道行く人の半分を殺していた」
「幡が落ちた場所が神のいる場所」
「筑後国御原郡の姫社の杜に落ちて再び戻ってきた」
「機織りの道具に押さえつけられる夢を見た=(機織りの女神だと思った)」

*「荒ぶる神が道行く人の半分を殺していた」
これは筑紫神の名の由来譚ではないか。
命尽くし(イノチツクシ)の神。
筑紫の神は高良の神、饒速日命です。

幡は、八幡の幡=八幡大神。
応神天皇のことであり、また、宇佐の伝承では饒速日命でもあります。
幡が「落ちた」は、八幡の神の居場所を表します。
(ここの場合は「最初に落ちた場所」なので、この地が「媛社神社の起源」としています)
神の居場所を示す場合、隼鷹神社のように「鳥が止まった」などもあります。

*「筑後国御原郡の姫社の杜」
それがこの地。

もしも彼ならば、伝承は「暗喩」という形で残されているものでもあると言えます。

では、「媛社神」は、高良の神である饒速日命、
一緒に祀られている「棚機姫」は神功皇后のことではないだろうか?


                *

「ヒメコソの神」
前々から知っていたその神の名を、ごく最近他の神社でも目にしてました。


これは、<導かれている>

( つづき )

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2020年3月14日 (土)

神功皇后の伝承地 5 ~媛社(ひめこそ)神社~

「その2」の御勢大霊石神社から、南に下って3キロ。
媛社神社(ひめこそじんじゃ)がありました。
「隼鷹神社」「御勢大霊石神社」と皆、宝満川沿いにあります。

Dsc_0493

ここには神功皇后の伝承は無いのですが、
このお社こそ、彼女と饒速日命を繋ぐ場所だと考えています。
またの名を「七夕神社」。

Dsc_0494

彦星さまと織姫さまの銅像がありました。

Dsc_0496

Dsc_0497
一の鳥居の扁額は「媛社神社」ですが、

Dsc_0498

二の鳥居の扁額には「磐舩(いわふね)神社」と「棚織(たなばた)神社」と並んで刻まれています。

Dsc_0502

Dsc_0505

御祭神は、袴幡千千姫命(たくはたちぢひめのこみと)(織姫)
天火明命 織姫の長男
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと) 織姫の父
宗像神(むなかたのかみ)道主神 道の神様

Dsc_0500

ここにも伝承がありました。
「媛社神社の歴史は古く、その起源は1300年前に書かれた「肥前風土記」にさかのぼります。」

これについては、後に。

Dsc_0503

ここの神社から結びついたことはたくさんありました。

「媛社神社の伝承」

「媛(姫)社神の正体」

「もう一つのヒメコソ神社」


まずは一つずつ。

 

( つづく )

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2020年3月10日 (火)

神功皇后の伝承地 4 ~足跡~

神功皇后の伝承地は、九州北部に3000カ所あるとされています。
彼女がこの地にいたとされる数年(1~3年間)で、全部の場所を回れるでしょうか?
全てが事実とは限りませんが。

実際に、彼女が登ったとされる山にも登りました。
「三韓征伐の勝利を願っての神事の為の登山」という名目なので身重です。
それらの山の中には、急登もあり、岩場あり、片足幅しかない細い道ありで、
とても身重では無理です。
(砂地や粘土質の山もあり、滑って転びやすいです)

(「脊振山系分割縦走 その1」)~その3まで。

上記の記事は、背振山系を縦走した時のです。
この縦走中の山(浮嶽、雷山、背振など)他に宝満山などにも登ってます。

身重の体にそんな危険な目に合わせるとは到底思えません。
あの時代なら尚更、いくらなんでも周囲が許さないでしょう?

さらに、そのまま石をお腹に当て(冷やして)生まれないようにして、三韓征伐に行ったとか、
人としてあり得ないことです。
それらが事実とされているのなら、それこそおかしいのではないでしょうか?

各地の伝承に「違い」があるのは当たり前なことです。
口伝えで伝わったものでしょうから。
でも、神功皇后の伝承の「仲哀天皇」に関してはそこに不自然さを感じるのです。

山での神事の時も三韓征伐の時も、身重ではなかったのでは?

                 *

何故、そうなっているのか。

彼女の子供の「応神天皇」を仲哀天皇の子供にしたかったからです。
「彼女」と「応神天皇」の存在を、「中央」に取り込もうとした人達が。

おそらく、伝承として深く刻まれた「彼ら」の痕跡を消せなかったからです。
(それとも、何らかの理由で残さなければならなかったのか)

そう、「彼ら」。
神功皇后の伝承地には必ず「彼」の名がありました。
神として。

                 *

「足跡」

「その2」の御勢大霊石神社の御祭神の「足仲彦大神(仲哀天皇)と吉富大神(?)」以外の三柱、
天照皇大神、八幡大神、春日大神は、高良神です。
筑後一宮の高良大社の神。
住吉神でもある饒速日命。

さらにこの前に行った、隼鷹神社には「大己貴命」の名もありました。
彼も饒速日命です。


いままで参拝した神社、山、伝承には神功皇后の名と共に「かの神」の名があるのです。
神結び」のカテゴリーにした記事はすべてそこに繋がります。

高良の神は、高良の伝承では神功皇后と夫婦とされていました。
(「神の鉾 3 ~安曇磯良神~」)

(「神の鉾 4 ~天照の分御霊(わけみたま)~」)


高良の神は、饒速日命です。
(「卑弥呼の墓 その3 ~ 高良神と饒速日命~」)

彼を祖神とする一族が、全国に広まり、その地や部族に関する名に替えたのです。
(「日本の真相 19 ~神・饒速日命の名~」) など。

神功皇后と共に名がある神の名は、饒速日命。

                  *

この神社の後、前々から行きたかった神社がすぐ近くにあると分かり、
そちらへ向かいました。

そこで、確信したのです。

今に残された、足跡。
神功皇后と共に行動した「彼」。
「彼」とは、神功皇后とは、誰か。

 

( つづく )

 

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2020年3月 8日 (日)

神功皇后の伝承地 3 ~架空の存在・仲哀天皇~ 

神功皇后の伝承は、日本書紀の神功記などでは非常に詳細です。
その軌跡も辿れるようです。
ですが、各地の伝承を集めたというにはあやふやなのです。

ここの神社に関してもそれは言えます。
Dsc_0484

神社の由緒書きにあった仲哀天皇の崩御地、それには幾つも説があるのです。

(1)香椎宮(の側の頓宮)で崩御という説。

日本書紀の神功記などに記されています。
熊襲征伐について神功皇后が神託を受けている時、
「三韓に宝があり、先にそちらへ行け」という神の言葉を疑い、
神の怒りに触れてその場で亡くなったとされています。

もしも香椎宮で崩御したのなら・・・。

一時でも天皇の御形代とした霊石をこの地へ納めるだろうか?
ここではならなかった理由があったのでしょうか?

三韓征伐からの帰りは長崎から回って、福岡の南西の港から(今の大川市辺りの)川を
遡って行ったともされています。
古来の海は、有明海と玄界灘と繋がっていたので船で移動したのは確かなようですが。
(ここで船を替えたので下した??)

香椎宮で崩御したのなら、ここに霊石や衣や剣を納める程の明白な理由がありません。


(2)「香椎宮での神事」の後、熊襲征伐に行って崩御という説。

香椎宮での神事の時の神の言葉を疑ったまま熊襲征伐に行き、戦いの合間に亡くなった、
それがこの地という説。
(他にも微妙に違う色々な説があります)

香椎宮はここから北へ、今の道のりで37キロ。

この説ですと、この地で亡くなったから、「仲哀天皇の御形代であった霊石」をこの地に
祀ったという理由はなります。                          
ですが、神功記の「香椎宮で崩御」の話は「嘘」になります。

                           *


「仲哀天皇は架空の存在なのでは?」

彼ら(特に仲哀天皇との件)に関しては、土地土地で微妙に説が違います。
自分にとっては、それが仲哀天皇の存在自体を疑問に感じている理由の一つです。

1800年以上経って(筑紫の神社では神功皇后は紀元200年代の人)いるから、
伝承があやふやになった・・・とも考えられます。

記紀の成立は奈良時代(700年台)です。
500年~400年も前の話(一般的には文字も無かったとされている時代の話)を、
そんな詳細に書けるものだろうか?


神功記という日本書紀ではかなりのページを割き、描かれている彼らの物語。
誰かがその道を辿り、調べ、集めなければ書けないはず。
ですが、都合のいいように変えられていると感じます。


これは元々あった神功皇后(とされている人の)伝承に、作られた伝承を被せたからではないか。

この御勢大霊石神社の場合、「霊石」のあったこの場所に神功皇后(と言われている)人達が来て、
霊石を祀り、次の地へ赴いた。
というのが真相では?


仲哀天皇と絡めようとしているので、話がおかしくなっているのです。
各地の伝承と少しずつ、違っていく。
その「違い」に意図的なものを感じる。
これが、仲哀天皇は架空なのではと思う理由です。



( つづく )

 

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2020年3月 6日 (金)

神功皇后の伝承地 2 ~御勢大霊石神社~

福岡県小郡市大保竜頭の「御勢大霊石神社」です。

隼人鷹神社から2.7キロ。
ここにも神功皇后の伝承があります。
おそらく彼女たちが「熊襲征伐」で南下した道。

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御祭神は、足仲彦大神(仲哀天皇)、天照皇大神、八幡大神、春日大神、吉富大神

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皇統十四代仲哀天皇筑前国橿日宮にて崩マレ又、皇后天皇の御手代として姑く
男貌も假り石を以て
御形代として之を奉し三韓を征し給うに三韓不日に服従す。
御凱旋の後大保の郷に宮柱太敷立て此の石を祭り給い御勢大霊石神社と崇らる

社前に御剱・御衣を納め給う。これを御本體と稱す。
標柱に「史跡仲哀天皇殯葬傳説地」とある。
                  (上記 案内板より)

仲哀天皇が香椎宮で崩御した。
神功皇后は男装し、霊石を天皇の御形代として船乗せ三韓征伐した。
凱旋した後、その霊石を祭り、社殿前に剣と衣を納めた。

案内板には、上記のようにありました。
ですが、お社で頂いた案内書には仲哀天皇は
「敵の毒矢に当てられてこの地で崩御された」とあります。

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同じ境内の案内板。
「竜頭の由来」この辺りの地名です。
神功皇后二年(世紀二〇二年)、仲哀帝が熊襲新征に当り橿日宮(香椎宮)の本陣より
この地長栖(大保)に軍を進められた。
清浄な宝満川周辺のこの地を好まれこの地「竜頭」に天照大神を祀られ
仮陣地に定められたと伝えられている。


とあります。
(神功皇后元年は、仲哀天皇が亡くなった年です)

ここで今までの疑問がさらに大きくなりました。

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どこに真実はあるの?


( つづく )


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2020年3月 4日 (水)

神功皇后の伝承地 1 ~隼鷹神社~

前々から気になっていた御勢大霊石神社へ行こうと思い立ち、福岡を南下。
もうすぐお目当ての神社というところで、左手の田んぼの中にこんもりした林を発見。
こういう場所は大抵、お社の杜です。

目が離せなくなって、そちらへ向かうことにしました。
”ここ、来たことがある”と強烈な既視感が。

そこには隼鷹神社がありました。

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創建は1800年以上前。
ここには神功皇后の伝承がありました。

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御祭神は、高御産巣日神、大己貴命、彦火々出見命、高皇産霊神。

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伝説では、仲哀天皇が熊襲征伐の時、大保の仮宮で天神地祇を祀った時に、
高皇産霊神が鷹の姿をとって現れ、
北を指して飛び去り、松の梢に止まって姿が見えなくなりました。
その後、神功皇后の勅命で高皇産霊尊の神霊を祭り、鷹の姿で現れたことから
この神の名前を隼鷹天神と称して、御神体の鷹を安置しました。
この当時の松は朽ちてしまい、その後には楠があり、それが今の御神木とのこと。
                                 (Google 口コミ 原和さんより)


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ここは大己貴命が祀られていました。

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境内の北側に三本のクスノキがある。
中心にあるものがもっとも大きく、幹周り八・五〇m、樹高三十三mを測る。
幹には注連縄がかけられ、地元民の信仰を集めている。
 この木には、平成十七年に創建千八百年祭を迎える隼鷹神社の起源に
まつわる伝承が残されている。
 クスノキのあった場所は「もとみや」と呼ばれ、ここはかつて神殿があって、
そこにクスノキが植わっているという。その木に鷹がとまったので、
隼鷹神社になっという神社由来の伝承がある。
                             (上記 表示板より)

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真ん中のクスノキって、これかな?

なんだろう、ここの強烈な既視感。
場所に、かな。

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この辺りはもう一つの伝承があり、”重なる”のです。
それは、後に。

この後、御勢大霊石神社へ

( つづく )

 

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