架空の存在・仲哀天皇 ~ 神功皇后の伝承地 3~
神功皇后の伝承は、日本書紀の神功記などでは非常に詳細です。
その軌跡も辿れるようです。
ですが、各地の伝承を集めたというにはあやふやなのです。
ここの神社に関してもそれは言えます。
神社の由緒書きにあった仲哀天皇の崩御地、それには幾つも説があるのです。
(1)香椎宮(の側の頓宮)で崩御という説。
日本書紀の神功記などに記されています。
熊襲征伐について神功皇后が神託を受けている時、
「三韓に宝があり、先にそちらへ行け」という神の言葉を疑い、
神の怒りに触れてその場で亡くなったとされています。
もしも香椎宮で崩御したのなら・・・。
一時でも天皇の御形代とした霊石をこの地へ納めるだろうか?
ここではならなかった理由があったのでしょうか?
三韓征伐からの帰りは長崎から回って、福岡の南西の港から(今の大川市辺りの)川を
遡って行ったともされています。
古来の海は、有明海と玄界灘と繋がっていたので船で移動したのは確かなようですが。
(ここで船を替えたので下した??)
香椎宮で崩御したのなら、ここに霊石や衣や剣を納める程の明白な理由がありません。
(2)「香椎宮での神事」の後、熊襲征伐に行って崩御という説。
香椎宮での神事の時の神の言葉を疑ったまま熊襲征伐に行き、戦いの合間に亡くなった、
それがこの地という説。
(他にも微妙に違う色々な説があります)
香椎宮はここから北へ、今の道のりで37キロ。
この説ですと、この地で亡くなったから、「仲哀天皇の御形代であった霊石」をこの地に
祀ったという理由はなります。
ですが、神功記の「香椎宮で崩御」の話は「嘘」になります。
*
「仲哀天皇は架空の存在なのでは?」
彼ら(特に仲哀天皇との件)に関しては、土地土地で微妙に説が違います。
自分にとっては、それが仲哀天皇の存在自体を疑問に感じている理由の一つです。
1800年以上経って(筑紫の神社では神功皇后は紀元200年代の人)いるから、
伝承があやふやになった・・・とも考えられます。
記紀の成立は奈良時代(700年台)です。
500年~400年も前の話(一般的には文字も無かったとされている時代の話)を、
そんな詳細に書けるものだろうか?
神功記という日本書紀ではかなりのページを割き、描かれている彼らの物語。
誰かがその道を辿り、調べ、集めなければ書けないはず。
ですが、都合のいいように変えられていると感じます。
これは元々あった神功皇后(とされている人の)伝承に、作られた伝承を被せたからではないか。
この御勢大霊石神社の場合、「霊石」のあったこの場所に神功皇后(と言われている)人達が来て、
霊石を祀り、次の地へ赴いた。
というのが真相では?
仲哀天皇と絡めようとしているので、話がおかしくなっているのです。
各地の伝承と少しずつ、違っていく。
その「違い」に意図的なものを感じる。
これが、仲哀天皇は架空なのではと思う理由です。
( つづく )
« 御勢大霊石神社 ~神功皇后の伝承地 2~ | トップページ | 足跡 ~神功皇后の伝承地 4~ »
コメント