媛社神社と荒穂神社の伝承と二つの風土記 ~神功皇后の伝承地 6~
媛社(ひめこそ)神社には伝承がありました。
「肥前風土記」に記されてあります。
山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がおり、道行く人のうち半分を殺してしまいました。
そこで荒ぶる神が祟る理由を占うと、「我が社を造って、筑前国宗像郡の人である珂是古(かぜこ)
に祭祀を行わせよ。そうすれば、荒ぶる心は起こさない」という結果がでました。
珂是古は幡を掲げて祈祷し、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風に飛ばされて、神のそばに落ちよ」
といいました。
すると幡は風に飛んで筑後国御原郡の姫社の杜(もり)に落下し、再び飛んで山道川のほとりに
戻ってきました。また珂是古は機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
これで神の場所と、神が女神であることを知った珂是古が祭祀を行い、
人々が当地を安全に通れるようになりました。ここから、この地を姫社(ひめこそ)と呼んでいます。
(神社で頂いた案内書より抜粋)
この伝承によく似ているものがあります。
(「二つの伝承」にまとめてあります)
*基山の麓にある「荒穂神社の伝承」
昔、木の山(基山)の東に荒ぶる神(鬼)がいて、往来の人が
命 を落とす「命尽くし(筑紫の名の起原)」ことがありました。
それを退治したのが五十猛神。
(「二つの伝承 2 荒穂神社 ~佐賀県三養基郡~」)
*筑紫神社の伝承(筑後国風土記)
祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。
(以下、筑後国風土記)
昔、こ(筑前・筑後)の国境(鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)という険しく狭い坂)
に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。
その数は極めて多かった。そこで「人の命尽の神」と言った。
筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫を祭司として
まつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。
これを持って「筑紫の神」と言う。(Wikipediaより)
この「二つの伝承」から分かったことです。
*荒穂神社の伝承の、人々の命を取ったという荒ぶる神が「イノチツクシの神」。
それを退治したのが「五十猛神」。
*「筑紫の国魂」は、高良大社の神。
*筑後国風土記では「荒ぶる(イノチツクシ)神」を鎮めたのは「甕依姫」。
二つの伝承は同じであり、かの神は饒速日命。
筑紫での五十猛神は、名を変えられた彼。
退治した方の神を「ツクシの神」として祀るようになったのです。
(筑紫の神の名の由来譚)
またこれらの伝承と御祭神から、筑紫の国魂である高良の神と、「甕依姫」が共に行動し、
「ツクシノカミ」を退治したと分かりました。
*「甕依姫」
ツクシノカミが出たという鞍韉盡坂(したくらつくしのさか )は、
九州の箱根とも言われていた深く険しい谷の「冷水峠」。
その側にある大根地山にある大根地神社の伝承から、「甕依姫」は神功皇后。
また、二つの神社の御祭神からも、それが「宝満大神」であり、
宝満宮竈門神社の御祭神、神功皇后だと分かりました。
「神功皇后と高良の神は夫婦であり、共にイルヰを退治した」
という高良大社の高良玉垂宮神とあるのが、「荒ぶる(イノチツクシ)神」退治。
(「二つの伝承 8 ~五十猛命と甕依姫~」)
*
媛社神社の伝承に戻ります。
「山道川の西岸に荒ぶる神がいて、道行く人の半分を殺していた」
「幡が落ちた場所が神のいる場所」
「筑後国御原郡の姫社の杜に落ちて再び戻ってきた」
「機織りの道具に押さえつけられる夢を見た=(機織りの女神だと思った)」
*「荒ぶる神が道行く人の半分を殺していた」
これは筑紫神の名の由来譚ではないか。
命尽くし(イノチツクシ)の神。
筑紫の神は高良の神、饒速日命です。
幡は、八幡の幡=八幡大神。
応神天皇のことであり、また、宇佐の伝承では饒速日命でもあります。
幡が「落ちた」は、八幡の神の居場所を表します。
(ここの場合は「最初に落ちた場所」なので、この地が「媛社神社の起源」としています)
神の居場所を示す場合、隼鷹神社のように「鳥が止まった」などもあります。
*「筑後国御原郡の姫社の杜」
それがこの地。
もしも彼ならば、伝承は「暗喩」という形で残されているものでもあると言えます。
では、「媛社神」は、高良の神である饒速日命、
一緒に祀られている「棚機姫」は神功皇后のことではないだろうか?
*
「ヒメコソの神」
前々から知っていたその神の名を、ごく最近他の神社でも目にしてました。
これは、<導かれている>
( つづき )
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