ブログ村に参加してます!ぽちっとお願いします

*このブログについて

  • amebloにもサイトがあります。 そちらに載せる時に加筆したもの(後に分かったこと)を、改訂版として再びこちらへUPしている記事もあります。
2022年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

amebloリンク

無料ブログはココログ

☆ブログからの引用などについて☆

  • このブログの考察、写真、イラスト、考察などは、管理人に著作権があります。無断転載は御遠慮ください。

« 神功皇后の伝承地 3 ~架空の存在・仲哀天皇~  | トップページ | 神功皇后の伝承地 5 ~媛社(ひめこそ)神社*七夕神社~ »

2020年3月10日 (火)

神功皇后の伝承地 4 ~足跡~

神功皇后の伝承地は、九州北部に3000カ所あるとされています。
彼女がこの地にいたとされる数年(1~3年間)で、全部の場所を回れるでしょうか?
全てが事実とは限りませんが。

実際に、彼女が登ったとされる山にも登りました。
「三韓征伐の勝利を願っての神事の為の登山」という名目なので身重です。
それらの山の中には、急登もあり、岩場あり、片足幅しかない細い道ありで、
とても身重では無理です。
(砂地や粘土質の山もあり、滑って転びやすいです)

(「脊振山系分割縦走 その1」)~その3まで。

上記の記事は、背振山系を縦走した時のです。
この縦走中の山(浮嶽、雷山、背振など)他に宝満山などにも登ってます。

身重の体にそんな危険な目に合わせるとは到底思えません。
あの時代なら尚更、いくらなんでも周囲が許さないでしょう?

さらに、そのまま石をお腹に当て(冷やして)生まれないようにして、三韓征伐に行ったとか、
人としてあり得ないことです。
それらが事実とされているのなら、それこそおかしいのではないでしょうか?

各地の伝承に「違い」があるのは当たり前なことです。
口伝えで伝わったものでしょうから。
でも、神功皇后の伝承の「仲哀天皇」に関してはそこに不自然さを感じるのです。

山での神事の時も三韓征伐の時も、身重ではなかったのでは?

                 *

何故、そうなっているのか。

彼女の子供の「応神天皇」を仲哀天皇の子供にしたかったからです。
「彼女」と「応神天皇」の存在を、「中央」に取り込もうとした人達が。

おそらく、伝承として深く刻まれた「彼ら」の痕跡を消せなかったからです。
(それとも、何らかの理由で残さなければならなかったのか)

そう、「彼ら」。
神功皇后の伝承地には必ず「彼」の名がありました。
神として。

                 *

「足跡」

「その2」の御勢大霊石神社の御祭神の「足仲彦大神(仲哀天皇)と吉富大神(?)」以外の三柱、
天照皇大神、八幡大神、春日大神は、高良神です。
筑後一宮の高良大社の神。
住吉神でもある饒速日命。

さらにこの前に行った、隼鷹神社には「大己貴命」の名もありました。
彼も饒速日命です。


いままで参拝した神社、山、伝承には神功皇后の名と共に「かの神」の名があるのです。
神結び」のカテゴリーにした記事はすべてそこに繋がります。

高良の神は、高良の伝承では神功皇后と夫婦とされていました。
(「神の鉾 3 ~安曇磯良神~」)

(「神の鉾 4 ~天照の分御霊(わけみたま)~」)


高良の神は、饒速日命です。
(「卑弥呼の墓 その3 ~ 高良神と饒速日命~」)

彼を祖神とする一族が、全国に広まり、その地や部族に関する名に替えたのです。
(「日本の真相 19 ~神・饒速日命の名~」) など。

神功皇后と共に名がある神の名は、饒速日命。

                  *

この神社の後、前々から行きたかった神社がすぐ近くにあると分かり、
そちらへ向かいました。

そこで、確信したのです。

今に残された、足跡。
神功皇后と共に行動した「彼」。
「彼」とは、神功皇后とは、誰か。

 

( つづく )

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村

 

« 神功皇后の伝承地 3 ~架空の存在・仲哀天皇~  | トップページ | 神功皇后の伝承地 5 ~媛社(ひめこそ)神社*七夕神社~ »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 神功皇后の伝承地 3 ~架空の存在・仲哀天皇~  | トップページ | 神功皇后の伝承地 5 ~媛社(ひめこそ)神社*七夕神社~ »