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2021年1月31日 (日)

夜の大神神社 ~饒速日を求めて ⑩~ 

11月20~23日にかけて行った奈良への旅。
まだ一日目。
夜の大神神社。

Dsc_0468

スマホなので画像はいまいち。

三輪山の側の宿に着いたのが18時過ぎ。
参拝は諦めて、お風呂に入ってご飯を食べに外へ。
戻る途中で、大神神社へ。

今日中に一回入りたかったな~
と鳥居の前でうろうろしてると、地元の方が入って行こうとしていた。

「夜でも入っていいのですか?」
と聞いたら、ここは夜間も参拝できるそうで。

「やった!ありがとうございます!」
と参拝決行。
感謝。

Dsc_0469_20210130151201

夜の神社。
とても静かで、穏やかで清浄な雰囲気。

そうか、ここはあまりにもパワーが強いから夜でも大丈夫なんだ。

Dsc_0470
灯篭の明かりが綺麗。
足元もしっかり明るい。
灯篭の明かりって魔をはねる役割もあるんでしょうね。

普段から真っ暗な山の中でも、ヘッドライト一つで歩いてるので、闇は怖くないのだが。
むしろ、わくわくする。
後ろに三輪山が控えてると思うと、このまま歩いて行きたくなる。

Dsc_0471

Dsc_0472_20210130151301

Dsc_0474

拝殿。

星が綺麗だった。
背後の三輪山の気があふれてきて、とても心地よかった。

次の日は、いよいよ三輪山登山!
奈良にいる友人と待ち合わせ。

そう言えば、さっきの人たち来なかったなぁ。

長い時間、独り占めだった。
ありがとう。

Dsc_0478

 

 

( つづく )

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2021年1月29日 (金)

脊振山の神々 ~二柱の龍神~

*「龍の住む山」

脊振山は、上宮嶽、弁財天山、ともされている。

山頂の上宮に弁財天が祀られている故だ。

御祭神は、その弁財天と習合されている「市杵島姫命」。
かの神を祀ったのは、神功皇后。

                20210120111712_img_3697


*「脊振の二龍」

 

著書「箸墓の歌」の中で小椋一葉氏は、脊振山についてこう書かれていた。

「「背振神社蔵古書によると、絶頂に霊窟があり、二竜常に出現し背を振る時、山が動き地震う、故に背振山と号する」」
(小椋一葉 著作「箸墓の歌」より抜粋)

氏は、その二柱の竜(神)が「須佐之男命」と「饒速日命」ではないかとあった。


しかし、筑紫の神と言えば、「饒速日命」。
白日別神として筑紫神社に祀られているのも、筑後国一之宮の高良大社に祀られているのも高良神も彼。

「須佐之男命」は彼自身だった。

☆→祇園の神 9 ~高良大社の祇園の神~


また、脊振山頂には、弁財天と毘沙門天が祀られている。

それが脊振の伝承の乙護法善神と弁財天。

☆→奇振岳・くしふる岳 ~二柱の龍~)アメブロの記事


八大龍王にも繋がった。

佐賀の八大龍王社の祭神は綿津見神。

志賀海神社の祭神であり、竜宮と呼ばれている。

高良神と同神。

 

よって、脊振の毘沙門天と弁財天は、高良神と神功皇后となる。

浦島伝承の「乙姫」は、乙護法善神の后であるからだった。

☆→八大龍王と弁財天 1 ~浦島太郎~

                          *

弁財天は市杵島姫命であり、御炊屋姫。

高良神はその夫の饒速日。

☆→高良玉垂宮神秘書 2 ~高良神は物部の神~

 

彼女は大和で彼と出会い、その先は「神功皇后」として名を変えられて筑紫に存在していたのだ。


神社に連なるたくさんの神。
また、神話でも、親でも子でもない神々の名。
なのに、何故一緒に祀られているのか。
これが答え。

 

*「クシフル岳」

それ故に、この山が本当の「クシフルタケ」。
「クシなる、布留神の山」。
あるいは、「クシなるものが降った山」。

饒速日命は、櫛甕玉饒速日命(布留神)。
「クシ」は彼の名の前にある「冠辞」のようなもの。



<<奇(くし)>>には、人間に不思議な奇跡をもたらすもの、
神の力を感じられるものという意味がある>>

「真実」であるからこそ、繋がる。

 

*「現人神」

ならば、気になるのは、「脊振神社蔵古書」の言葉。

「二竜常に出現し背を振る時、山が動き地震う 」

二柱が彼らであるならば、彼らが”それ”を起こすとは考えにくい。
それは。

山が動き地震う時、二竜が常に出現する」

脊振の神の一柱が饒速日命であるなら、これに重なる言葉があった。
住吉の元宮、現人神社の伝承に。

☆→現人神社 福岡県

「国の大事の際に人の前に姿を現し、神通力を振るう神」

同じことを指しているのではないか。

また、大辞泉の「現人神」の項にはこうある。

<随時、姿を現して、霊験あらたかな神。特に住吉や北野の神をいう>

北野の神は、菅原道真公。

「現人神」で繋がるこの二柱の神。
よく同じ社に祀られている。

「登弥神社」の御祭神にも名があった。

 


20201121155529_img_3167-1

それは、筑紫においても同じ。
そこは元々「饒速日命」の土地であり、「太宰府の菅原道真公」もかの地に来られていた。

筑紫だからこそ、この二柱の神は繋がっている。
(「天神様が拝んだ神 ~福岡 天拝山~」)

天神様(菅原道真公)が、基山で天に拝した神は、饒速日命であった。

高良神(饒速日)は、鹿島、春日の神とも同神であり、武御雷神でもある。

道真公が亡くなった後、都に雷を落としたとされたのは、彼の方では無かったのか。

 

ゆえに、神として一緒くたにされたのではと考えている。

道真公も「現人神」なのだ。

 

 

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2021年1月23日 (土)

雪の脊振山

脊振山系は、福岡市の背後に連なる山々です。

その中で一番高いのが「脊振山」。

まだ雪が残ってるとのことで行ってきました。

Dsc_0702

まずは、下宮から参拝。
ここからスタートです。

20210120091925_img_3663

脊振神社下宮。
御祭神は市杵島姫命。
しかし、脊振山の神は、他にもおられます。

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市杵島姫命は弁財天と習合されています。

20210120092113_img_3664

20210120092538_img_3668 20210120092552_img_3669

境内に、白蛇社もあります。

登山口へはこの下宮から1.7キロ、車道を登っていきます。

Dsc_0704


ここで登山靴にチェーンスパイク(軽アイゼン)をつけます。
この道は上宮への参道になります。

Dsc_0707
雪は固めなんで、アイゼンを付けてなくてもいける感じ。
でも踏み込めないので付けててもいいかな、という程度。

雪の登山道は足元が分からなくなってるので、登山道から逸れないように歩きました。
(普段は道なき道を藪漕ぎ、ショートカットもする^^;)

Dsc_0716

ここで一番好きな大杉。
樹齢400年だそうです。

20210120104613_img_3680

何度か渡渉します。
アイゼンを付けてても渡れました。
大石だと踏めないかもです。

20210120104130_img_3676

最大40センチくらい積もってました。

20210120110347_img_3689
自衛隊横の駐車場に到着。
真っ白。
四駆の跡があります。
この軽は降る前に停めたのかな。

ここまで麓から車で上がって来られます。
車道の突き当りが基地で、向かって右側に入るとこの駐車場。

車で背振山の山頂に来る人はここに停めます。

20210120111229_img_3694

自衛隊前の車道を横切り、階段を上がります。

20210120110907_img_3693

途中、役の小角さんの像が、基地の中に。
遠ーい。

20210120111510_img_3695

石の鳥居とメロンドーム!

20210120111712_img_3697

脊振神社上宮と自衛隊のレーダードームです。

なかなか凄いコラボでしょ。

基地があるおかげで、ここまでの車道も綺麗で、気軽に来られます。
ご来光を見に来られる方もいるそうです。

でも、雪のシーズンはたまに路面が凍ってるので、チェーンが無いと厳しい時も。
3月まで解けません。
脊振は、福岡の「壁」なのです。

20210120112323_img_3712_1
博多湾方向。
霞んでますね。

20210120112648_img_3713

南西方向。
お!あれは長崎の雲仙!

20210120112051_img_3704

アップ。
霞かな?雲海かな?
めっちゃ綺麗! 

20210120111854_img_3698

脊振山 1054.6m

初めてここに来たのは4年前。
3月の中旬なのにまだ雪がありました。

登山者の方が、下から雪道を来たと言われてて、自分には到底無理だと思ってました。
(駐車場まで車で来てた)

でも、その後、山行するようになってからは「雪の脊振参道を歩いてここまで来たい」と思うように。
念願叶いました。

4年越しです。

(「脊振神社 下社 ~佐賀県神埼市~」)

(「脊振神社 上社 ~佐賀県神埼市~」)

(「脊振山 登山」) ←(雪のない時の脊振参道)



あの時は分からなかったこと、今回分かりました。


 ( つづく )

 

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2021年1月22日 (金)

自宅 to 難所ヶ滝の氷瀑

もう10日ほど前ですが。
福岡に近年まれに見る大寒波がやってきた。

「やった!今年こそ氷瀑!」

と大喜びで、宝満山の難所ヶ滝へ出発!
家を出たのは朝の3時半。

車道が全部、雪に埋もれてたので、家から往復約34キロを歩いた。

Dsc_0680

途中には「御笠の森」がある。
神功皇后の伝承があり、それからずっと大切にされている。

Dsc_0681

これが御笠川。
真っ白!
あ、そうか、御笠川って、神功皇后の伝承から付いた名なんだ。
初めて気づく。

Dsc_0684

山に近づいて行くにしたがって、深くなってきた。

Dsc_0692

登山口の昭和の森近くで、明るくなり始めた。
朝7時。
家から14キロを3時間半。
途中の道路はてかてか。
車じゃ無理だったな。

20210109072206_img_3623

登山口の杉並木。
すでに新しい足跡がある。

Dsc_0694

樹氷~。
難所ヶ滝まで、1時間半。
チェーンスパイク(軽アイゼン)を装着して歩いた。
雪質はふかふか!
九州じゃないみたい!

Dsc_0696

こんなに積もってる!
最大20センチは積もっていた。

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「小つらら」到着。
分かりにくいところにあるが、ちょうど先行者がいて、教えてくれた。
「大つらら」も期待できそう。

20210109085803_img_3631

着いた!難所ヶ滝の氷瀑!!
すでに5人いた。
人がいたので比較。

20210109090422_img_3646

感無量です!
頑張って来て良かった~!
ずっと憧れてた!

 

普段は崖を撫でるようにちょろチョロしか流れていない「滝」。

「これが氷瀑になると見事だよ!」

と、みんなに聞かされてた。

ここに立ってられるなんて感慨深い。


ここ最近、温暖だったので、ここまでになるのは7年ぶりくらいだそう。

せっかくなので、山頂を踏もうと更に上へ。
と、寒さと吹雪の中、スマホが誤作動を起こしてしまったので、あえなく撤退。
下山しました。

氷瀑見たら、上まで行く気力が尽きた、のが本音^^;

20210109104055_img_3655
下まで降りてきて、登山口を振り返ったとこ。
吹雪いている。
50人ぐらいすれ違った。

うちはソロ。
皆、それぞれなるべく近づかないようにとか気にした。

20210109105929_img_3659

下の昭和の森キャンプ場に到着。
唯一の展望。

Screenshot_202101220534032

軌跡が飛んでる!
スタートとゴールの地点は反対。

33.8キロ、約10時間かかった。

氷瀑最高!(>▽<)

来年も氷瀑みたいな~。

2021年1月18日 (月)

大国主神の幸魂奇魂

巨大な奈良湖の水がざあ~っと引いていく。
その光景と大国主神の”幸魂奇魂”が重なった。
出雲大社にあるあの像だ。

Dsc_1762_20210117134101

奈良湖の水を引いた。
那珂川に裂田溝(さくたのなで)という水路を造り、田んぼに水を満たした。

それが饒速日命たちが行ったことならば。
繋がるのだ。

「水の満ち引き」という現象。
これこそ、「潮干珠、潮満珠」が象徴する”もの”。
                                          
饒速日命がもたらしたという十種神宝の中の「玉」。
高良の神が操ったという「干珠満珠」。
山幸彦が海の神(豊玉姫)からもたらされた「潮干珠、潮満珠」。

同じ神であり、それらは同じもの。
玉の共通点は水の満ち引きを操る力
   
          

大国主神の「幸魂奇魂」

それは、共に国造りをしたという少彦名神が常世の国に帰ってしまった後に現れた玉とされる。
「彼自身」であり、奈良の「三輪山」に祀れば、国造りに協力しようと告げる。

三輪山の神は大物主神である饒速日命。
つまり、玉は「饒速日命」そのもの。
それは、彼の力の象徴でもあるのだ。

「国造りをするためのアイテム」と捉えれば、「幸魂奇魂」も同じ。

さらに、神話、伝承のこのような状況は同神を意味する。
それらは全て二柱に集約されるのだから。

(☆→神*総まとめ)

                          
巨大な奈良湖の水を引く。
海の引き潮のように。

裂田溝(全長6キロにも及ぶ水路)から、田んぼへと満たされる水。
満ち潮のように。

*(神功皇后が三炊屋姫、武内宿禰、住吉神とされるのが饒速日命)


当時の人達には、水を操るように見えたのかもしれない。
国造りをしたと言われる彼ら。
神業としか思えないことをやってのけた人たち。
その「神業」が伝承として残り、十種神宝の力として伝えられている。

また、”そうであるからこそ”、奈良湖の水を引いたのは「彼ら」なのだ。
だから、饒速日命は「水を操る神」「国土を造った神=大国主」として後世に伝わり、三輪の神として祀られている。

                                               *

「出雲大社の神」

境内の、大国主命が海から「玉(幸魂、奇魂)」を貰う場面の像は、彼が饒速日命である証。
玉は「干珠満珠」(高良大社の伝承)。
饒速日命がもたらした(垂れる)という十種神宝。
高良玉垂神という名は、ここからだ。

「大国主神の后」

神話では大国主神の后は市杵島姫ですが、出雲大社の筑紫社の御祭神は、多紀理姫。
筑紫の神の「たきりひめ」と言えば、市杵島姫と同じく、宗像大社の三女神の一柱。

住吉三神は、一柱の神(饒速日命)であるが、宗像三女神も同じ。
三女神とされながら、一柱の神なのです。
(「市杵島姫の名の意味 ~斎星姫・蘇る神~」)
(☆→女神・天照とは)


出雲大社の筑紫社に祀られる彼の后「多紀理姫(宗像神)」。
大神神社に祀られる彼の后「市杵島姫(宗像神)」。
籠神社の天火明命の后「豊受=市杵島姫」。
(宇迦乃御魂神も)


彼らは”共に同じ”だからこそ、そこに祀られているのだ。
他に理由はない。

全て彼へと繋がる。

                        *

出雲大社の「大国主神」の「幸魂奇魂」は、三輪山の「大物主神」。

つまり、彼は「饒速日命」そのものだよ、ということです。
出雲大社と大神神社の前で「幸魂奇魂守給幸給」と言葉にするのは、彼が三輪山の饒速日命であることを忘れてないよ、と神に宣言していることになります。

例え、人々がその神の真の姿を知らなくても。
その言霊が、想いが、彼に、饒速日命に届くように。
彼の真の姿に深く繋がるように。
出雲大社の「大国主神」の「幸魂奇魂」は、三輪山の「大物主神」。
両社の前で「幸魂奇魂守給幸給」と言葉にするのは、彼が三輪山の饒速日命であることを忘れてないよ、と神に宣言していることになる。

例え、人々がその神の真の姿を知らなくても。
その言霊が、想いが、彼に、饒速日命に届くように。

彼の真の姿に深く繋がるように。

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2021年1月15日 (金)

天鳥船の時代 後編~饒速日命を求めて ⑨

古代にあった巨大な奈良の湖。
これが「前世の時代」を特定してくれた。

今回、私の記憶の中の湖とほぼ一致する画像を見つけた。

E080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e-1(出典)
「古代で遊ぼ」
 http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/index.html

最初に「古代奈良」を見たのは今から35年ほど前。
その頃は、奈良に湖があったこと自体知らなかった。(ネットもなかったので)

上記の画像には、耳成山のすぐ側まで湖がある。
藤原京と書いてあるすぐ上の△が耳成山。

鳥肌が立った。

あの夢の風景と重なったからだ。
ほぼ、上記のような感じ。


ただ、その時の私は「増水で広がった湖の心配していた」ようなので、普段の様子とは違うらしい。
(*1  普段は湖の周辺は湿地帯になっており、稲を育てていたよう)


上記のサイトによると、弥生~古墳時代の水面標高は、45m辺りだそう。

地図から標高を検索するサイトを発見。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院
(リンク踏むと奈良のこの辺りの地図が開きます)

北の平城駅辺り 76m。
耳成山北麓 61.8m。
九条駅 58.5m。

そして2000年前にはあったという唐古・鍵遺跡は、49.1m。
そのすぐ1.5キロ西にある、石見駅の場所で45m。

「(*1)普段」は、ほぼ濃い青の範囲だったのかもしれない。

                    *

もう一つ、「彼」が来た後、開墾した記憶がある。
饒速日たちが湖を湿地帯に変えた・・・水を引かせた?ような。

上記地図の左側にある「大和川河床開削」という箇所のことかもしれない。

上記サイトに
ここを開削すれば、水が大阪側へ流れる。
弥生時代に九州から奈良に到達した農耕民である弥生人がこれに気づかぬはずがない。
(要約です)

とあるが、このことかも。


福岡の那珂川市を流れる那珂川の一の堰の川床は、出雲の蹈鞴(たたら・鉄を作る場所)と同じ構造をしてます。
彼らに「川の改良技術」があったことは確かなのだ。
(「裂田神社と裂田の溝(さくたのうなで) 福岡県」)

また、上記サイト(古代で遊ぼ)に
唐古・鍵遺跡の環濠は弥生中期後半に洪水で埋まり、その後復旧した様子がある。
全国規模の異常気象であれば、各地で農耕不振となって倭国争乱のきっかけとなった可能性もある。

ともある。

「倭国争乱」は邪馬台国ができる少し前の話。
この倭国争乱を鎮めたのが、九州から来た農耕民である彼らの「大和川開削」に当たるのだと思う。


*後に、高良神=饒速日と繋がった。
高良大社の下社は祇園さん。

高良山の麓にある祇園山古墳は、卑弥呼の墓比定地であり、造営年がほぼ一致する。

大社の神官により、代々守られてきた墓は、彼の后だ。

☆→祇園の神 11 ~前編 卑弥呼は神功皇后~

ならば、私が見た「巨大な奈良湖」は饒速日が来る前の状態。

 

巨大な古代奈良湖
   ↓

饒速日たちが九州から移動して、「大和川開削」。
奈良湖の水を引かせる。

   ↓
*1の状態になった。
(  普段は湖の周辺は湿地帯になっており、稲を育てていたようでした。)

 

というのが時系列なのかもしれない。

                   *


・・・あ、この件、福岡の那珂川の「神功皇后」に繋がる。
那珂川には「一の堰」「裂田溝」がある。

伝承では、「神功皇后と武内宿禰」と土地の人が開削したとある。

「彼ら」が、「三炊屋姫と饒速日」と同一人物であるなら・・・。



大和で「大和川開削」。
奈良湖が湿地帯に(稲作箇所が広がる)。

筑紫(福岡)へ移動。

那珂川の「裂田溝」を開削。

そういうことだったのか。

饒速日命(たち)は、各地で国を整備し、国土を整えた神ともされる。
故に「大国主神」でもあるのだ。

また、稲の神である「歳神」「猿田彦神」「宇迦之御魂」などは皆、「饒速日命」の別名。

それは「彼ら」が、稲作の為の土壌を整備したからに違いない。

                         *

「彼らの時代」

倭国争乱。
それは、弥呼の邪馬台国の時代

この湖の状態の時、「アマノトリフネが現れて饒速日命」と会ったのなら・・・。

「饒速日命は紀元200年前後の人」ということになる。

あくまでも私の記憶と照らし合わせてのことだが。

そうであるなら、

*饒速日命は紀元200年前後の人。

*前世のヒミカは、饒速日命の后の三炊屋姫。

*あの「ヒミカ」も200年頃の人であり、卑弥呼の時代と重なる。

 

「三之矢塚」の説明版にもあったが、邪馬台国は私も物部王朝だと思います。
物部氏。
饒速日命と御炊屋姫から連なる一族だ。

*邪馬台国の「卑弥呼」が、三炊屋姫であり、饒速日命の后ならば、それは「物部王朝」ではないのか。

 


彼らの時代は、邪馬台国成立の西暦200年頃です。
福岡の神功皇后を祀る神社では、彼女を紀元200年頃としている。

福岡の伝承からも彼らは「住吉神・高良神(饒速日)と神功皇后」だと分かった。

彼女が眠っている(と確信している)「祇園山古墳」は3世紀中ごろ造営。

 

伝承は「すべてが事実」ではないけれど、その中に「事実がある」のかもしれない。
様々な伝承を調べましたが、「重要なこと」は揺るぎが無いのだ。

                 *

空を飛行した「天鳥船」


「饒速日命のアマノトリフネ伝承」の重要部分は
「生駒山」
「日下」の辺りで「日の本(ひのもと)」と言ったこと(通った)。
「西から大和へ来たこと」
「矢田丘陵の登美の地へ」
そして「飛行する船」。

 

船でこの地に来たのでなければ、「天鳥船(磐船)」伝承は成立しない。

そうならば・・・。
「天鳥船」は、川を遡航してきたのではない。
奈良の北からは、大阪側から船では来られないからだ。

 

下の地図は地理院地図 / GSI Maps|国土地理院 のサイトのスクショ。

奈良の北側になる。

Screenshot_202101151331063

見えにくいですが、1は奈良市の北の西端「学研奈良登美ヶ丘駅」 約133m。
(ここから西は生駒山の麓になるので標高はもっと上がってる。)
(日下は生駒山の西側)

2は、奈良市神功6丁目 92m。(1と2の距離の中間辺り)

3は、「高の原駅」 約55m。

4は、JR「平城山駅」 約56m。
(ここから西は標高が上がっていく)


奈良湖の水面標高が45~50mだとしても、奈良の北はそれよりも高い位置にある。
大阪側から川で奈良へと遡航できないのだ。

ならば、言えることは一つ。


「本当にその船は空を飛行して、矢田の地へと来た」。

時は「大和争乱」の時代。

邪馬台国が成立するという200年代。

 

「卑弥呼」と「饒速日命」は重なる。

「彼女」は御炊屋姫。

彼女は大和から筑紫へと「彼」と来ていることになる。

 

彼が高良神(住吉神、武内宿禰、応神天皇(の一部か)なのだから、

彼女は神功皇后。
☆→高良玉垂宮神秘書 2 ~高良神は物部の祖神~)アメブロの記事

☆→高良玉垂宮神秘書 7 ~高良神*神功皇后の祈りにより出現~

 

筑紫の伝承として残る物語が、彼らの「続き」なのだ。


( つづく )

 

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2021年1月11日 (月)

天鳥船の時代 前編 ~饒速日命を求めて ⑧~ 

古代、奈良盆地には巨大な湖があった。
私が「アマノトリフネ」を見た前世の時代。

(「前世と石切劔箭神社と矢田坐久志比古神社 その1」)

(「奈良 古代の湖」)

  あの奈良湖の状態から、あの時代が特定できないだろうか?

今回の旅はその手掛かりを掴むためでもあった。

大阪の新石切駅から生駒山を越えて矢田丘陵へ、更に九条駅まで。
YAMAPの軌跡には、ルートの標高も記録される。
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スタート地点の大阪の新石切駅の辺りは、山の側でありながら標高(海抜も同じ)数メートルなのが分かる。
古代、今よりもずっと海面が高いので、このごく近くまで海だったのかもしれない。

生駒山は標高641m。
山を越えた、最初の谷は生駒山の麓の地域。
(この部分で一番深い(川の側)のとこが生駒市有里町)
ここで標高100m程。

その次の山が矢田の山。
標高250mくらいだろうか。

さらにその向こうが矢田丘陵(16.9kmと書いてある周辺)。
その地点で標高90mくらい。

矢田丘陵から徐々に高度を下げて、ゴールの九条駅の辺りは60m程になる。
(奈良盆地は、(盆地なので)全体的に大阪側より標高がある)


知りたかった矢田丘陵「三之矢塚」は標高90m程の地点にあった。

ちょうどスクショしてました。
下の画像は、奈良県奈良市石木町
前回の「登弥神社」の側でスクショしたもの。
ここで90mと表示されている。
矢田丘陵はここよりほんの少し(数メートル)高い場所にあったので、90m以上の地点に間違いない。

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この画像の私が歩いたルートの左端の方(大和郡山市)の文字の「山」を挟んで丸くなってる上が「三之矢塚」下が「矢田坐久志玉彦神社」。
その辺りが矢田丘陵。
(上のSのスタートとGのゴールは、YAMAPの他の人のルートを参考に歩いたので表記されいる)

                         *

下は「饒速日を求めて ① ~生駒越え~ 23.5キロ」にもある私が歩いた軌跡(薄い水色)。

左側の濃い緑が生駒山山系。
「1」の数字の左下の紫の印(見にくいですが)が生駒山山頂。

生駒山山系の東(右)に連なる緑が「矢田の山」。
その東の「2」の紫で囲った部分が「矢田丘陵」。
その中の二つの紫印の内、上が「三之矢塚」。
その下の紫印が「矢田坐久志玉彦神社」。

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右上の「3」の紫印が平城で「神功皇后の御陵(五社神古墳)」のある地。
そのすぐ側に今の私は住んでいた。
その辺りも「登美」と言われていたそう。
今でも「登美ヶ丘」という地名がある。

だから、御炊屋姫の「登美一族」の地は奈良盆地の北西の大部分を占めていたのかもしれない。
推測ですが、緑の線で囲った線の内側。
(南の方はどこまでか分からない)

また、薄い水色に塗った中の低い土地はすべて湖だと思われる。

大体、上記のような感じ。

                   *

下は奈良盆地全体の図。

「1」の紫に囲ったのが矢田丘陵。

緑の線の西側が登美の里(推測)。

「前世の古代奈良」のある場面を見た時、大和三山の北にある耳成山が側に見える位置にいた。

湖の南端はその辺りまできていた。
端の方は湿地帯になっていて、後に稲を栽培してたよう。(いつの時か?)

 

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「3」が三輪山。

右下にある三つの山が大和三山。
北にある「2」の側の山が耳成山。

この場面を見た時、耳成山が見える地点にいて、山が南西(よりも南寄り?)にあった。
「前世の私」がその時いた場所は、耳成山から見て、北北東辺り。

これは「アマノトリフネ」と違う場面。
(時間的に前後かは分からない)


北の端は分からない。
でも当時から登美と言われる地域は陸なので、近鉄の東西線(奈良の北部で東西に走っている線路)よりは南であったことは確か。
私が住んでいた平城駅の辺りはおそらく(奈良盆地よりは)標高が高いので、湖ではなかったはず。

                        *

「前世の古代の夢」にあった巨大な奈良の湖。
これが「あの時代」を特定してくれた。

 

( つづく )

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2021年1月10日 (日)

登弥神社とその神 ~饒速日命を求めて ⑦~

前回の「矢田坐久志玉彦神社」から、約4キロ。
冨雄川沿いにあった。
「登彌神社」とも記される。

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御祭神は饒速日命。

彼は登美一族の御炊屋姫と夫婦になった。
登美饒速日命の名もある。

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彼らは物部氏の祖神。

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石段が続く。

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手水舎。

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拝殿です。
奥にお社がある。

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ここに祀られている神々の名。

神社に行った時、不思議に思われたことはないでしょうか?
なぜ、一緒に祀られているのだろう、と。

神社の中には、様々な神が祀られている社がある。
ある時は本殿に、ある時は摂社などに。

 

神話の神はほとんど彼らになる。

☆→神*総まとめ

東本殿  高皇産霊神 誉田別命  

西本殿  神皇産霊神 登美饒速日命 天児屋根命

摂社

祓殿社  瀬織津比売 速秋津比売 気吹戸主神 速佐須良比売神 表筒男神 中筒男神 底筒男神

豊穂神社  大日霎命 豊受比売神 天宇受女神

山室神社  大物主神 菅原道真

荒神神社  大山祇神 底高津日神

比良神社  猿田彦神 大己貴神 八重事代主神

それぞれのお社、摂社に祀られている神はほとんど同じ「彼と彼女」の別名。

祓いの神の住吉三神も「彼」。

☆→神*総まとめ

 

「神の名」は、その神への願い、広めた一族の名、土地などにより変化する。


「同じ神」なので、同じ神社に祀られるのだ。
ここに「誉田別命」の名があるのは、彼も同神ゆえ。

 

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この地が「白庭山」。
饒速日命が埋葬されているとも言われてるが、彼は「大神神社」の大物主神であり、三輪山にあるともされて特定されていない。

だが、彼は筑紫の高良神でもある。

ならば、埋葬地は筑紫の可能性が大きいだろう。

 

登弥神社から2キロ歩くと、近鉄 九条駅。
ここから、宿のある三輪まで、電車で向かった。

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その続きは後程。


次は「奈良湖」について。

新石切駅から生駒山を越えて、矢田丘陵から九条駅まで。
このルートを歩いたのは、「奈良湖と矢田」について知りたいことがあったから。


「前世の私」が「ヒミカ」であって、饒速日命の后、御炊屋姫ならば、それはいつの時代だ?と。

夢で見た「奈良湖」には、その時代を特定する鍵があった。


( つづく )

 

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2021年1月 8日 (金)

矢田坐久志玉比古神社 ~饒速日命を求めて ⑥~

前回の「三之矢塚」から650m。

10分も歩くと「矢田坐久志玉比古神社」。
やたにいます くしたまひこ神社。

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櫛玉彦とは饒速日のこと。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。

こちらの御祭神は、彼と御炊屋姫。
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楼門にはプロペラがついている。
饒速日命が天磐船で降りて来たという伝承から、「飛行、航空」の神ともされているからだ。

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拝殿。

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この地に「矢が落ちた」ことから、矢落大明神とも言われる。
神の名は一つではない。
その神を奉祀する人たちが地方へ散らばり、そこで一族や土地や「働き(願い)」によって名が変わる。

饒速日にはいくつもの名があった。
彼を奉る人たちの願いの数だけ。

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境内には、饒速日が天磐船から放った三本の矢の一つ、「二之矢塚」がある。

下のはご由緒書き

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御祭神 櫛玉饒速日命 御炊屋姫命


饒速日命は、天照坐皇大神詔により弟神の天孫降臨に先立ち、豊葦原中津国仮平定のため天乃羽羽矢と天璽(あまつしるし)十種神寶(とくさのかんだから)を授かり、天磐船で天降られました。

 初めに河内国の河上の哮峰(*1 いかるがのみね)に天降られ、祭祀を営まられましたがお住まい(宮居)とされず、再び天磐船にお乗りになり大和の天空を駆け巡られながら、「吾を宮居の地に導き給え」の御祈願をされ、天乃羽羽矢三本を射放たれました。

この状(さま)が「やまと」の最古の枕詞の「そらみつ」のおこりで、この地に三本とも落ちましたので「矢田」と呼ばれ「矢落社・矢田大宮」と称されてます。

二の矢(境内)に、三十二従者(とものかみ)・部人(ともびと)を率いられ天降られます。

 この地を治めていた大豪族登美長髄彦(とみのながすねひこ)の妹、御炊屋姫を娶り宇麻志麻治命がお産まれになります。

当地方最大の古社として創建より六世紀前半まで機内随一の名社として栄え社殿は宏壮美麗を極めます。

仏法興隆とともに神裔(しんえい)物部氏は四散し社運は衰退したと伝えられています。

(*1 哮ヶ峰は、たけるがみね とも言われてます)

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内務省神社局が、天空を司る神(航空祖神)は、当社であると考証したことから、二宮忠八氏がたびたび参拝されました。

楼門の、プロペラは昭和十八年に大日本飛行協会大阪支部から奉納の、満州事変で使われた陸軍九一式戦闘機1型から取り外された実物です。(以下、略)

ここは、「彼ら」の地。

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上の赤印が「三之矢塚」。
下の赤印が「矢田坐久志玉彦神社」。

この辺りは、小高い丘の上です。(丘陵ですからね)


アマノトリフネは、この地にやってきたのだ。

それは間違いなく「空を飛んで」。

 

 

彼らは大和の後、筑紫へと移動する。

それからが高良神(住吉)と神功皇后の伝承になる。

☆→高良玉垂宮神秘書 7 ~高良神*神功皇后の祈りにより出現~

☆→神*総まとめ



次は「登弥神社」へ。

( つづく )

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2021年1月 2日 (土)

矢田の饒速日の伝承地 ~饒速日命を求めて ⑤~

奈良県大和郡山市矢田町。

矢田丘陵。

そこは、記憶の場所だった。

饒速日命の伝承地でもある。

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ここには「三之矢塚」があった。

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天磐船に乗った饒速日命が降り立つ場所を決める為に、船上から放った三本の矢の一つが落ちたと言われる地。

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ここは邪馬台国の想定地。

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山ナビのYAMAPのログで知った。
記憶と同じ風景を見たのだ。

一枚目の写真の風景だった。

ここに来たのは、それを確かめたかったから。

 

  この場所知ってる。
  夢で見た場所だ。

  ニギハヤヒが乗った船が降りて来た場所。

  夢で見たあの風景そのままだ。

(「古代奈良の夢 ~前世 4~」)

 

饒速日命の后、御炊屋姫は登美一族。
この一帯は登美と呼ばれていた。
(今の奈良の北西部一帯、広範囲です)

あの夢の”彼女”がヒミカで、ミカシヤ姫(御炊屋姫)であるなら、
この地に住んでいて、
この地にアマノトリフネが降りてきて、
この地でニギハヤヒと出会うのは
当然のこと。


そのことにようやく気づいた。

矢田の地に「アマノトリフネ」が降りて来たことは、夢から感じとっていた。
でも「その時、自分が居た(住んでいた)」場所は分からなかった。

漠然と奈良盆地の西側、としか。


それはなぜか。

”その場所から生駒山が見えなかったから”

それもそのはず。

 

20201121143547_img_3132

(この場所から見た生駒山の方向(西))

ここから見えないのは当たり前だった。
目の前に矢田の山があって、その向こうの生駒山は見えなかったのだ。

私が「遠視」で見たのは、「生駒山を越えてアマノトリフネが来るシーン」。

ちょうどこんな感じ。

20201121135558_img_31194

 

それは、矢田の山の向こうから、生駒山を遠視で見たものだったのだろう。


アマノトリフネは生駒山を越えて、矢田の地に降りてきた。
そこで饒速日命と「ヒミカ(ミカシヤ姫・三炊屋姫)は出会う。


その地は、「邪馬台国伝承地」の一つとされている。

他はどうかは分からないが、北部九州の「邪馬台国伝承地」の多くは、「饒速日命と神功皇后の二人に関係する場所」にある。

 

符合するからだ。
彼らの時代と。

あの前世の「ひみかと饒速日」の時代は、200年頃。
「邪馬台国」の時代。

二人の名前は変えられている。

夢の”ヒミカ”が御炊屋姫であり、神功皇后でもあり、
饒速日命が住吉神であり、高良神(高良大社の神)などでもある。

 

先日行った福岡、福津市の楯崎神社でようやく分かた。

                  *


この地の側にある「矢田坐久志玉比古神社」へ向かった。



( つづく )

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2021年1月 1日 (金)

生駒山から矢田丘陵へ ~饒速日命を求めて ④~ 

石切劔箭神社上宮から生駒山を目指す。

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右寄りの鉄塔がある山が生駒山。
11月21日なので、まだまだ紅葉していた。

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ほぼ舗装道と木段。
途中にはお寺や石仏もあった。

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山頂近くのこの場所が一番綺麗だった。
歩いて来て良かった~と思う瞬間。

20201121115619_img_3096山頂。
上の写真は大阪側。
大阪湾も神戸の山も見える。

ここには「生駒山遊園地」がある。
入場は無料だが、コロナ対策に登山者も駐車場入り口で検温があった。

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奈良にいた小さい頃、何度も遊びにきていた。
右側の飛行塔、記憶と全く同じと思っていたら、なんと日本最古90歳だそう!

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生駒山の三角点はキッズトレインの敷地の中。

奈良側にはケーブルカーがあり、遊園地まで来れる。(車でも来れる)
下りはほぼこのケーブルカー沿いを歩く。

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ここで線路を渡って、南へと進路を変える。

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手前が生駒山の中腹。

向かいの山が矢田丘陵の山。
目指すはあの向こう。

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反対側の丘の方まで上がってきた。
来た道(西)を振り返りますと、生駒山が見える。

山頂に鉄塔が幾つも立ってる山。
肉眼だともう少し大きく、近く見える。

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こんな竹林も抜けて行くと・・・。
矢田丘陵。

20201121143526_img_3130

ここだった。
記憶の中の場所。

ここには「三之矢塚」があった。


( つづく )

 

                  *

明けましておめでとうございます!

皆さんにとって良いことがたくさんありますように!

 

( つづく )

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