矢田坐久志玉比古神社 ~饒速日命を求めて ⑥~
前回の「三之矢塚」から650m。
10分も歩くと「矢田坐久志玉比古神社」。
やたにいます くしたまひこ神社。
櫛玉彦とは饒速日のこと。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
こちらの御祭神は、彼と御炊屋姫。
楼門にはプロペラがついている。
饒速日命が天磐船で降りて来たという伝承から、「飛行、航空」の神ともされているからだ。
拝殿。
この地に「矢が落ちた」ことから、矢落大明神とも言われる。
神の名は一つではない。
その神を奉祀する人たちが地方へ散らばり、そこで一族や土地や「働き(願い)」によって名が変わる。
饒速日にはいくつもの名があった。
彼を奉る人たちの願いの数だけ。
境内には、饒速日が天磐船から放った三本の矢の一つ、「二之矢塚」がある。
下のはご由緒書き
御祭神 櫛玉饒速日命 御炊屋姫命
饒速日命は、天照坐皇大神詔により弟神の天孫降臨に先立ち、豊葦原中津国仮平定のため天乃羽羽矢と天璽(あまつしるし)十種神寶(とくさのかんだから)を授かり、天磐船で天降られました。
初めに河内国の河上の哮峰(*1 いかるがのみね)に天降られ、祭祀を営まられましたがお住まい(宮居)とされず、再び天磐船にお乗りになり大和の天空を駆け巡られながら、「吾を宮居の地に導き給え」の御祈願をされ、天乃羽羽矢三本を射放たれました。
この状(さま)が「やまと」の最古の枕詞の「そらみつ」のおこりで、この地に三本とも落ちましたので「矢田」と呼ばれ「矢落社・矢田大宮」と称されてます。
二の矢(境内)に、三十二従者(とものかみ)・部人(ともびと)を率いられ天降られます。
この地を治めていた大豪族登美長髄彦(とみのながすねひこ)の妹、御炊屋姫を娶り宇麻志麻治命がお産まれになります。
当地方最大の古社として創建より六世紀前半まで機内随一の名社として栄え社殿は宏壮美麗を極めます。
仏法興隆とともに神裔(しんえい)物部氏は四散し社運は衰退したと伝えられています。
(*1 哮ヶ峰は、たけるがみね とも言われてます)
内務省神社局が、天空を司る神(航空祖神)は、当社であると考証したことから、二宮忠八氏がたびたび参拝されました。
楼門の、プロペラは昭和十八年に大日本飛行協会大阪支部から奉納の、満州事変で使われた陸軍九一式戦闘機1型から取り外された実物です。(以下、略)
上の赤印が「三之矢塚」。
下の赤印が「矢田坐久志玉彦神社」。
この辺りは、小高い丘の上です。(丘陵ですからね)
アマノトリフネは、この地にやってきたのだ。
それは間違いなく「空を飛んで」。
彼らは大和の後、筑紫へと移動する。
それからが高良神(住吉)と神功皇后の伝承になる。
(☆→高良玉垂宮神秘書 7 ~高良神*神功皇后の祈りにより出現~)
(☆→神*総まとめ)
次は「登弥神社」へ。
( つづく )
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