天鳥船の時代 後編~饒速日命を求めて ⑨
古代にあった巨大な奈良の湖。
これが「前世の時代」を特定してくれた。
今回、私の記憶の中の湖とほぼ一致する画像を見つけた。(出典)
「古代で遊ぼ」
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/index.html
最初に「古代奈良」を見たのは今から35年ほど前。
その頃は、奈良に湖があったこと自体知らなかった。(ネットもなかったので)
上記の画像には、耳成山のすぐ側まで湖がある。
藤原京と書いてあるすぐ上の△が耳成山。
鳥肌が立った。
あの夢の風景と重なったからだ。
ほぼ、上記のような感じ。
ただ、その時の私は「増水で広がった湖の心配していた」ようなので、普段の様子とは違うらしい。
(*1 普段は湖の周辺は湿地帯になっており、稲を育てていたよう)
上記のサイトによると、弥生~古墳時代の水面標高は、45m辺りだそう。
地図から標高を検索するサイトを発見。
地理院地図 / GSI Maps|国土地理院
(リンク踏むと奈良のこの辺りの地図が開きます)
北の平城駅辺り 76m。
耳成山北麓 61.8m。
九条駅 58.5m。
そして2000年前にはあったという唐古・鍵遺跡は、49.1m。
そのすぐ1.5キロ西にある、石見駅の場所で45m。
「(*1)普段」は、ほぼ濃い青の範囲だったのかもしれない。
*
もう一つ、「彼」が来た後、開墾した記憶がある。
饒速日たちが湖を湿地帯に変えた・・・水を引かせた?ような。
上記地図の左側にある「大和川河床開削」という箇所のことかもしれない。
上記サイトに
ここを開削すれば、水が大阪側へ流れる。
弥生時代に九州から奈良に到達した農耕民である弥生人がこれに気づかぬはずがない。
(要約です)
とあるが、このことかも。
福岡の那珂川市を流れる那珂川の一の堰の川床は、出雲の蹈鞴(たたら・鉄を作る場所)と同じ構造をしてます。
彼らに「川の改良技術」があったことは確かなのだ。
(「裂田神社と裂田の溝(さくたのうなで) 福岡県」)
また、上記サイト(古代で遊ぼ)に
唐古・鍵遺跡の環濠は弥生中期後半に洪水で埋まり、その後復旧した様子がある。
全国規模の異常気象であれば、各地で農耕不振となって倭国争乱のきっかけとなった可能性もある。
ともある。
「倭国争乱」は邪馬台国ができる少し前の話。
この倭国争乱を鎮めたのが、九州から来た農耕民である彼らの「大和川開削」に当たるのだと思う。
*後に、高良神=饒速日と繋がった。
高良大社の下社は祇園さん。
高良山の麓にある祇園山古墳は、卑弥呼の墓比定地であり、造営年がほぼ一致する。
大社の神官により、代々守られてきた墓は、彼の后だ。
ならば、私が見た「巨大な奈良湖」は饒速日が来る前の状態。
巨大な古代奈良湖
↓
饒速日たちが九州から移動して、「大和川開削」。
奈良湖の水を引かせる。
↓
*1の状態になった。
( 普段は湖の周辺は湿地帯になっており、稲を育てていたようでした。)
というのが時系列なのかもしれない。
*
・・・あ、この件、福岡の那珂川の「神功皇后」に繋がる。
那珂川には「一の堰」「裂田溝」がある。
伝承では、「神功皇后と武内宿禰」と土地の人が開削したとある。
「彼ら」が、「三炊屋姫と饒速日」と同一人物であるなら・・・。
大和で「大和川開削」。
奈良湖が湿地帯に(稲作箇所が広がる)。
↓
筑紫(福岡)へ移動。
↓
那珂川の「裂田溝」を開削。
そういうことだったのか。
饒速日命(たち)は、各地で国を整備し、国土を整えた神ともされる。
故に「大国主神」でもあるのだ。
また、稲の神である「歳神」「猿田彦神」「宇迦之御魂」などは皆、「饒速日命」の別名。
それは「彼ら」が、稲作の為の土壌を整備したからに違いない。
*
「彼らの時代」
倭国争乱。
それは、弥呼の邪馬台国の時代。
この湖の状態の時、「アマノトリフネが現れて饒速日命」と会ったのなら・・・。
「饒速日命は紀元200年前後の人」ということになる。
あくまでも私の記憶と照らし合わせてのことだが。
そうであるなら、
*饒速日命は紀元200年前後の人。
*前世のヒミカは、饒速日命の后の三炊屋姫。
*あの「ヒミカ」も200年頃の人であり、卑弥呼の時代と重なる。
「三之矢塚」の説明版にもあったが、邪馬台国は私も物部王朝だと思います。
物部氏。
饒速日命と御炊屋姫から連なる一族だ。
*邪馬台国の「卑弥呼」が、三炊屋姫であり、饒速日命の后ならば、それは「物部王朝」ではないのか。
彼らの時代は、邪馬台国成立の西暦200年頃です。
福岡の神功皇后を祀る神社では、彼女を紀元200年頃としている。
福岡の伝承からも彼らは「住吉神・高良神(饒速日)と神功皇后」だと分かった。
彼女が眠っている(と確信している)「祇園山古墳」は3世紀中ごろ造営。
伝承は「すべてが事実」ではないけれど、その中に「事実がある」のかもしれない。
様々な伝承を調べましたが、「重要なこと」は揺るぎが無いのだ。
*
空を飛行した「天鳥船」
「饒速日命のアマノトリフネ伝承」の重要部分は
「生駒山」
「日下」の辺りで「日の本(ひのもと)」と言ったこと(通った)。
「西から大和へ来たこと」
「矢田丘陵の登美の地へ」
そして「飛行する船」。
船でこの地に来たのでなければ、「天鳥船(磐船)」伝承は成立しない。
そうならば・・・。
「天鳥船」は、川を遡航してきたのではない。
奈良の北からは、大阪側から船では来られないからだ。
下の地図は地理院地図 / GSI Maps|国土地理院 のサイトのスクショ。
奈良の北側になる。
見えにくいですが、1は奈良市の北の西端「学研奈良登美ヶ丘駅」 約133m。
(ここから西は生駒山の麓になるので標高はもっと上がってる。)
(日下は生駒山の西側)
2は、奈良市神功6丁目 92m。(1と2の距離の中間辺り)
3は、「高の原駅」 約55m。
4は、JR「平城山駅」 約56m。
(ここから西は標高が上がっていく)
奈良湖の水面標高が45~50mだとしても、奈良の北はそれよりも高い位置にある。
大阪側から川で奈良へと遡航できないのだ。
ならば、言えることは一つ。
「本当にその船は空を飛行して、矢田の地へと来た」。
時は「大和争乱」の時代。
邪馬台国が成立するという200年代。
「卑弥呼」と「饒速日命」は重なる。
「彼女」は御炊屋姫。
彼女は大和から筑紫へと「彼」と来ていることになる。
彼が高良神(住吉神、武内宿禰、応神天皇(の一部か)なのだから、
彼女は神功皇后。
(☆→高良玉垂宮神秘書 2 ~高良神は物部の祖神~)アメブロの記事
(☆→高良玉垂宮神秘書 7 ~高良神*神功皇后の祈りにより出現~)
筑紫の伝承として残る物語が、彼らの「続き」なのだ。
( つづく )
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