天鳥船の時代 前編 ~饒速日命を求めて ⑧~
古代、奈良盆地には巨大な湖があった。
私が「アマノトリフネ」を見た前世の時代。
(「奈良 古代の湖」)
あの奈良湖の状態から、あの時代が特定できないだろうか?
今回の旅はその手掛かりを掴むためでもあった。
大阪の新石切駅から生駒山を越えて矢田丘陵へ、更に九条駅まで。
YAMAPの軌跡には、ルートの標高も記録される。
スタート地点の大阪の新石切駅の辺りは、山の側でありながら標高(海抜も同じ)数メートルなのが分かる。
古代、今よりもずっと海面が高いので、このごく近くまで海だったのかもしれない。
生駒山は標高641m。
山を越えた、最初の谷は生駒山の麓の地域。
(この部分で一番深い(川の側)のとこが生駒市有里町)
ここで標高100m程。
その次の山が矢田の山。
標高250mくらいだろうか。
さらにその向こうが矢田丘陵(16.9kmと書いてある周辺)。
その地点で標高90mくらい。
矢田丘陵から徐々に高度を下げて、ゴールの九条駅の辺りは60m程になる。
(奈良盆地は、(盆地なので)全体的に大阪側より標高がある)
知りたかった矢田丘陵「三之矢塚」は標高90m程の地点にあった。
ちょうどスクショしてました。
下の画像は、奈良県奈良市石木町
前回の「登弥神社」の側でスクショしたもの。
ここで90mと表示されている。
矢田丘陵はここよりほんの少し(数メートル)高い場所にあったので、90m以上の地点に間違いない。
この画像の私が歩いたルートの左端の方(大和郡山市)の文字の「山」を挟んで丸くなってる上が「三之矢塚」下が「矢田坐久志玉彦神社」。
その辺りが矢田丘陵。
(上のSのスタートとGのゴールは、YAMAPの他の人のルートを参考に歩いたので表記されいる)
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下は「饒速日を求めて ① ~生駒越え~ 23.5キロ」にもある私が歩いた軌跡(薄い水色)。
左側の濃い緑が生駒山山系。
「1」の数字の左下の紫の印(見にくいですが)が生駒山山頂。
生駒山山系の東(右)に連なる緑が「矢田の山」。
その東の「2」の紫で囲った部分が「矢田丘陵」。
その中の二つの紫印の内、上が「三之矢塚」。
その下の紫印が「矢田坐久志玉彦神社」。
右上の「3」の紫印が平城で「神功皇后の御陵(五社神古墳)」のある地。
そのすぐ側に今の私は住んでいた。
その辺りも「登美」と言われていたそう。
今でも「登美ヶ丘」という地名がある。
だから、御炊屋姫の「登美一族」の地は奈良盆地の北西の大部分を占めていたのかもしれない。
推測ですが、緑の線で囲った線の内側。
(南の方はどこまでか分からない)
また、薄い水色に塗った中の低い土地はすべて湖だと思われる。
大体、上記のような感じ。
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下は奈良盆地全体の図。
「1」の紫に囲ったのが矢田丘陵。
緑の線の西側が登美の里(推測)。
「前世の古代奈良」のある場面を見た時、大和三山の北にある耳成山が側に見える位置にいた。
湖の南端はその辺りまできていた。
端の方は湿地帯になっていて、後に稲を栽培してたよう。(いつの時か?)
「3」が三輪山。
右下にある三つの山が大和三山。
北にある「2」の側の山が耳成山。
この場面を見た時、耳成山が見える地点にいて、山が南西(よりも南寄り?)にあった。
「前世の私」がその時いた場所は、耳成山から見て、北北東辺り。
これは「アマノトリフネ」と違う場面。
(時間的に前後かは分からない)
北の端は分からない。
でも当時から登美と言われる地域は陸なので、近鉄の東西線(奈良の北部で東西に走っている線路)よりは南であったことは確か。
私が住んでいた平城駅の辺りはおそらく(奈良盆地よりは)標高が高いので、湖ではなかったはず。
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「前世の古代の夢」にあった巨大な奈良の湖。
これが「あの時代」を特定してくれた。
( つづく )
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