明日香の亀石と三輪の神 ③ ~神功皇后~
続きです。
この図を見て、最初に気になったのが「二つの八幡神社」でした。
画像は「古代で遊ぼ」のサイトからお借りしています。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/index.html
「亀の瀬」の側に大和川を挟むようにあります。
現代でも大工事の後、その場所には記念碑が置かれます。
それはその人への労いであり、感謝の表明でもある。
それが大変であった、古代なら尚更です。
この「二つの八幡神社」も、それを表しているのではと?
つまり、この水利工事をしたのは、「八幡神」とされるもの。
「峠八幡神社」と「藤井八幡神社」。
御祭神は八幡神。
周辺には数多くの八幡神社がありました。
(藤井八幡は、元はもう少し西にあったそう)
ここの開削をしたのは、三輪山の神、饒速日命です。
本来ならば、彼を祀る神社があるはずでした。
しかし、彼は後に名を変えられています。
それは、かの神が八幡神でもあることを示しています。
彼の名の一つが「八幡神」と言うべきか。
彼は住吉神であり、神功皇后と夫婦です。
神功皇后の御子は、応神天皇であり、八幡神。
八幡神は、御子の応神天皇であり、饒速日命。(親子、一緒くたの伝承になっている)
饒速日命に繋がるのです。
<裂田溝(さくたのうなで)>
「亀石」からもう一つ繋がることがありました。
福岡那珂川市の「裂田溝(さくたのうなで)」。
上記に書いた「神功皇后」が指揮して造ったと言われる水利施設があります。
ここに「亀島」があるのです。
(裂田溝)
日本書紀にもある、「日本最古」の水路。
古代の水路が今まで残り、活用されてるのはここだけだとか。
「亀島」はここ、裂田神社の側にありました。
正確には跡ですね。
手前の岩です。
ここは神功皇后が、武内宿禰に祈らせると雷がなり、大岩を砕いたとされる箇所です。
彼は雷の神、武御雷神です。
(武内宿禰も住吉神、饒速日命)
(「神の鉾 4 ~天照の分御魂(わけみたま)~(改訂版)」)
案内板です。
案内板のアップです。
武内宿禰が祈ると雷が岩を砕いたという箇所はこの「亀島」。
中央の少し盛り上がっている場所全体が亀島です。
亀島のすぐ横に、裂田(さくた)神社があります。
御祭神は神功皇后ですが、開化天皇も共にする説があります。
彼女らは一柱で祀られることは無いので、必ずもう一柱がおられるはずです。
それが開化天皇とされる者でしたら、彼も饒速日命。
開化天皇は、国を開いた=大国主神。饒速日命です。
彼らは名を替え、何度も神話に登場しています。
那珂川には高良神が若い頃に住んでいたという猫嶺岳があります。
裂田神社がモニュメント。
工事の記念碑。
必ず側にあるものなのです。
福岡の那珂川には現人神社があり、彼は住吉の神。
神功皇后と夫婦であった者。
住吉神は饒速日命であり、
神功皇后は、彼の后の御炊屋姫。
彼らが、この「裂田溝(さくたのうなで)」を土地の人と造り上げたのです。
「彼ら」にはその技術がありました。
それが「干珠満珠」「十種神宝」の力として伝わっているのです。
また、奈良の「亀の瀬」にあった「亀岩」。
その側の「八幡神社」。
それは、「八幡の神とされる者」がその工事を指揮したことを意味しています。
元々、そこには別の名であったのかもしれません。
後の世に、彼、饒速日命が八幡の神ともされた時に、変えられたのでしょう。
裂田溝の先には那珂川があり、その取水口の側に「伏見神社」があります。
岩戸神楽や磯羅舞が奉舞される社。
御祭神は「淀姫」また、豊姫。
神功皇后の妹ともされています。
ここには白なまずの絵が掲げられています。
なまずが「神功皇后が三韓征伐の折りに、船を先導した」と伝わっているからです。
また、磯羅舞の中では、豊姫が「二つの玉」を海神から授かります。
この時、海の底には白なまずに乗っていったという話や、
淀姫が白なまずの姿をしていたとか、白なまずが神の使いとも言われています。
なまずに乗って海の底へ?
良く似た話がありました。
あれは亀でしたが。
浦島太郎の話です。
籠神社の縁起に繋がります。
(丹後一宮籠神社縁起)
*塩土老翁は、羽衣を盗んだ老翁。
豊受大神が天女。籠に乗って光っていた。
この豊受大神の籠が、籠神社の「籠」。
山幸彦を籠に乗せて海神宮に導いたこと。
ここから、「彼ら」に繋がっていきました。
*塩土老翁は、住吉神=饒速日命、籠神社の御祭神、天火明命です。
豊受大神は、籠神社の御祭神でもあります。
豊受大神は、饒速日命の后、御炊屋姫。
豊姫は豊受大神でもあります。
(豊姫は他にもいたかもしれないが、伝承は一緒くたになっている)
なまずも、亀も彼らの「乗り物の姿」を表しているのかもしれません。
「海の底へ行ける水が入らない籠」
「空を飛ぶ光る籠」
それが彼らを祀る「籠神社」の名の由来です。
それが、ある伝承では「亀」であり、「なまず」。
また、それらは後に「神の使い」として、彼らを祀る者たちの守り神ともされます。
亀、なまず。
奈良の「亀の瀬」の伝承にもありました。
彼らが同じならば、偶然ではありません。
彼らは、大和と筑紫、その両方にいたのです。
ここ那珂川は、な国、「な」は古語で、成す、為す、「完全な」という意味。
神の国を意味します。
また、やまとの語源は、大陸から伝わった言葉で、神の国の意。
「なら」と後に名づけられたのは、偶然ではありません。
*「ら」は光、神という意。
「な国」も「やまと国」も「なら」も同じ意味です。
魏志倭人伝の邪馬台国。
それは、「彼ら」がいた場所を示し、その両方であるのです。
向こうに伝わっていたのは、大和の方でしょう。
場所を明かすわけにはいかなかったからです。
裂田神社にはこんな案内板が数年前にできました。
裂田溝の物語です。
一部を要約。あとは写真を拡大してください。
*下記の伝承にもありますが、岩を裂く雷を落とす神事をしたのは、武内宿禰です。
武内宿禰は、饒速日命。
彼は、武甕槌(武御雷神)でもあります。
(武内宿禰は他にいたかもしれない。人物が一緒くたになってる可能性もある)
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神功皇后は三韓征伐の時、安徳村へ来て、旅の無事と勝利を祈り、那珂川から船出した。
無事に帰った皇后は、神々へのお礼の為に、現人神社にお参りした。
現人の神にお米を捧げる為に、神田を開く。
「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん!そのためのみぞを造る大工事をするぞ!」
神功皇后の掛け声で集まった村人は、これで美味しい米が食べられると、手に手にくわやすきを持って集まった。
ところが安徳台の辺りまで来た時に、大きな岩が行く手をふさいだ。
ここまで死にものぐるいで掘ってきたみぞを、あきらめるしかないのかと皆がっかりした。
そのとき、神功皇后は、武内宿禰という身分の高い家来に命令して、みぞをとおしてくれるよう、神がみにいのりをささげた。
(*神々に祈りを捧げ、雷を落としたのは、神功皇后ではなく、武内宿禰なんですよ。神功記でも)
雷がとどろき、岩を裂いた。
(これほどの固い岩。
くわでもすきでも歯が立たないような、そんな岩を砕いてしまった。
それは本当に「雷」だったのか。)
岩が砕け、人々は手を取り合って喜び、またいっしょうけんめい掘り進みました。
今光村まで掘り進んで、遂に平野に那珂川の水を引くことができるようになった。
豊かな水田に生まれ変わり、何千もの人がおいしいお米を食べられるようになった。
人々は米作りにはげみ、村には、豊かに実った稲穂で、村は黄金色にそまりました。
それから千六百年(*)もの長い間、那珂川町の七つの村、山田、安徳、東隈、仲(ちゅう・現人神社がある)、五郎丸、松木、今光をうるおし続けています。
(*神功皇后が歴史ではその頃とされるから。うなでの造られた正確な時期は不明)
あなたがいつも食べているご飯も、裂田溝から引いた水でつくられたものなのです。
日本で一番古い、現存する水路。
翡翠が飛ぶほど美しい水路。
土地の人が大切に守り、何千年も受け継がれてきたのです。
11月になると、「裂田溝ライトアップ」もあって、祭りが開かれます。
私は、あの「七つの村(今は地区名)」の中に、住んでいて、ここのお米を毎日食べています。
世界一美味しい!
この光景を初めて見た時、嬉しくて涙が止まらなかった。
未来が視えていた彼女。
この光景と同じものを時を超えて視ている。
そう、感じたのです。
もしも彼女が私だったら、こんな奇跡的なことは無い。
そう思えるほどの強い体験でした。
護り次いで来た人がいて、今がある。
ここに、私がいることの奇跡。
それは、私の力ではない。
そうか。
豊受の名の意味が分かった。
豊とは、祈り。
繋いできた願い。
それを受ける者。
そして。
彼に繋げるのが、豊受の名の意味。
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