波折神社*瀬織津姫と住吉神 ~祓いの神 9~
続きです。
その後、波折神社へ
福岡県福津市津屋崎
楯崎神社がある渡半島から車で5分。
ここには、瀬織津姫と住吉大神の伝承がありました。
ご祭神は、瀬織津大神、住吉大神、志賀大神。
神功皇后の新羅を遠征して凱陣した時、この三神が当浦渡村鼓島に現れた。
皇后はこの浦の岡分、河原崎の宮之本という地字に神垣を造り祭祀した。
後に漁民が嵐に遭った時、三神が現れ助けた。
鼓島に漂着した後、再び三神現れ飲食を与え給う。
(上記の縁起より要約)
瀬織津姫と住吉大神の組み合わせは、他には無いんじゃないでしょうか。
しかし、彼らの素性を最も的確に表してます。
祓いの神です。
(鼓島)
この波折神社の伝承では、
神功皇后が三韓征伐して凱旋した折に、鼓島で三神に逢ったとありました。
三神は、瀬織津大神、住吉大神、志賀大神です。
神功皇后は、彼らと邂逅していました。
楯崎神社の伝承では、大己貴命と宗像大神。
彼らが夷の類と戦った。
戦いの場所は、楯崎神社がある地~鼓島です。
後に、神功皇后が三韓征伐の折りに楯崎神社の地に船で着きます。
これらに高良大社の高良玉垂宮神秘書の伝承と今まで分かったことを重ねますと、すべてが繋がっていきます。
< 楯崎神社 >
大己貴命、宗像大神
夷の類と戦う
戦った場所は楯崎神社~鼓島(名称が残っている)
後に神功皇后
三韓征伐の折り(戦う前)に山に登り、助力を祈願
場所は楯崎神社の地
< 波折神社 >
瀬織津姫、住吉大神、志賀大神
神功皇后
三神と邂逅したのは、三韓征伐の凱旋の折り(戦って勝って帰ってきた後)
邂逅した場所は鼓島
< 高良大社(高良玉垂宮神秘書) >
高良神(安曇磯良神)、神功皇后
高良神は住吉神であり、志賀大神と同神(他のは省略)
高良神と神功皇后は夫婦。
二柱は、共に各地でイルヰと戦う。
(最接近した時に望遠で撮った鼓島)
彼らは、同神です。
☆大己貴命=饒速日命=高良神=住吉大神=志賀大神=天照大神
宗像大神=市杵島姫命=御炊屋姫=瀬織津大神(瀬織津姫)=神功皇后=豊受大神
(☆→神*総まとめ)アメブロの記事
☆神功皇后は饒速日命の后、御炊屋姫。
彼女は瀬織津姫でもありました。
楯崎神社と波折神社と高良大社の神は同じ。
では、各神社の伝承の元は同じです。
戦った「夷の類」とは、高良大社の伝承の「イルヰ」。
こんなに近いのに違うようにみえる伝承。
神の名も違います。
これは作為的なものでは。
だけど、分かれば確実に繋がる。
いつか分かるようにとの意図さえみえます。
< 祓いの神 >
住吉神、瀬織津姫は、祓いの神四柱の中にあります。
他の二柱も、名を替えた彼らかもしれません。
「祓いの神」とは、まさしく彼らが戦った「夷の類」「イルヰ」を退治したことに他ならないのです。
ならば神功皇后の伝承にある、「三韓」はイルヰ。
そうすると、記紀の記述が分かります。
神功皇后が香椎宮で神がかった時の神の言葉。
「内陸にいる(熊襲)羽白熊鷲を倒す前に、新羅を攻めろ。新羅には金銀がある」
一見、全く繋がりがないようなこの言葉。
それに引っかかっていたのです。
神が金銀を求めるか。
ですが、「三韓」と記載されてるものが実はイルヰなら。
内陸の「羽白熊鷲(イルヰ)」を倒すより前に、北の海からくるイルヰを倒せ
ではないのか。
*でも実際はどっちを先に退治したのか分かりません。
内陸の熊襲を退治したのが先ならば、
もしかしたら、内側の「イルヰ」が外の「イルヰ」を呼ぶのかな。
異類。
それは人ではありません。
何故なら各地にある神事が物語っています。
( つづく )
当時も海から出ていたのかな。
触ってみたい。
チャンスは年に二日ほど!
最大ここまで潮が引くらしい。
今度は反対から回ってみようか~。
(この後、鼓島に近づきました。その記事は後程)
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