美奈宜(みなぎ)神社 1 ~荷原*神功皇后の伝承地~
続きです。
前回の記事にあった、荷原(いないばる)の美奈宜神社。
福岡県朝倉市荷原2421
ここにも神功皇后の伝承があった。
(以下、ご由緒書きより抜粋)
ご祭神 天照皇大神、住吉大神、春日大神、
相殿 神宮皇后(神功が宮の字、以下そのままで)、武内宿祢
第14代仲哀天皇は古処白髪山を本城とする敵「羽白熊鷲(はねしろくまわし)」を討つため軍を進められていたが途中病気で急逝。
しかし神宮は喪を秘して武内宿祢等を従えて喰那尾山頂(ここから北西200m)の地で陣をしき謀議の末賊を討たれた。
これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神宮皇后の孫の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」と云う。
遷宮
1、(年省略)喰那尾山頂の陣跡へ。
2、大宮谷(ここから100m上へ)
3,領主秋月種実の頃現在地へ。
仲哀天皇は、香椎宮で亡くなったという、事細かな記載が記紀にある。
神功皇后の神がかりの際、「羽白熊鷲よりも先に、新羅へ行け」という神の言葉に異を唱えて、その場で崩御したのだ。
傍らには神功皇后と武内宿祢。
しかし、彼女らはそのお告げを無視し、羽白熊鷲を退治しに秋月へ向かう。
何故?と疑問だった。
一方でこの由緒書きのように、仲哀天皇は羽白熊鷲との戦いの中で崩御してる。
(病気説とか色々ある)
どちらにしろ、矛盾があるのだ。
これは架空の仲哀天皇を作り、伝承を織り交ぜた結果だと思われる。
彼らは同神なのだから。
立派な神門。
拝殿。
摂社として、宮地嶽神社。
(奥の祠を撮らなかったので拡大してください)
福津市の宮地嶽神社には、神功皇后と武内宿禰などが祀られてる。
摂社、末社などの神は、すべて同神。(後世の人は除く)
本殿、斜めから。
由緒書きには、
喰那尾山頂(ここから北西200m)の地で陣をしき謀議の末賊を討たれた。
とあった。
北西とは神社の裏山。
本殿に向かって、左側に山に向かう林道がある。
写真の左側の道。
いざ、入山。しばらく林道。
やがて尾根道を歩く。
踏み跡も無い。
幾度目かのピークを越えて、その奥のピークに向かう。
(地図はYAMAP)
入山する前にもしかしてと思った。
奥にある道路からの方が早いのではと。
でも喰那尾山がどこか分からないので、社から上がって行きたかった!
上の地図より奥のピークへ。
道路に近い方だった。
まあ、山行してたら良くあること。
あ!社があった!
美奈宜神社上宮跡とある。
「喰那尾神社 上宮」でもあるそう。
この社の先、来た反対方向を見ると、
道の先に紙垂(しで)が見えます。
簡易的な鳥居だ。
やっぱりあっち側から来れたのか~~!
帰りはそちら側から。
5分もしないで、道路が見えた。
鳥居がある。
(写真を撮るために、後ろに下がってる。道は右上の方)
立派な鳥居。
喰那尾神社の扁額があった。
その下には「上宮参拝登山口」の標識が。
この後、車を置いた美奈宜神社までぐるっと歩いた。
(田んぼの所、下りられる場所が無かった)
今登った喰那尾山は、左側で切れている。
ほぼ中央のお山が本宮があったという山。
(地図はGoogle map)
右下の美奈宜(荷原)とある場所が本宮跡。
(勝ったのは)お告げを受けた三神の助けであるとして、神功皇后が戦勝奉告をしたとされる地。
美奈宜神社に行く前に、そちらに車で行っていた。
旧宮地とある。
十六代仁徳天皇三年勅願に依り此の地に勧請された後世ここを本宮と言ふ
とあった。
(地図はGoogle map)
周辺の地図。
中央左が、神功皇后の伝承地の喰那尾神社(美奈宜神社上宮)
その下に中宮跡。
その下が美奈宜神社。
川を挟んで、右に美奈宜神社の本宮跡。
Google mapを拡大して知った。
美奈宜神社の中腹に中宮があるよう。
上の★マーク辺りか。
倒木など凄いそうだが、ここも行ってみたい。
次は林田の美奈宜神社へ。
まとめはそちらで。
( つづく )
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今更ながら始めました。
古代や神のこと、少しずつつぶやきます。
小分けなので分かりやすいかもです
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