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2023年8月 8日 (火)

竺紫と筑紫

前回の記事

☆→筑紫島の四つの面 ~玄界灘と有明海は繋がっていた~)


☆1 竺紫と筑紫

☆2 住吉神と「儺の国の星」

☆3 神話の地

*****************

 

☆1 < 竺紫と筑紫 >

神話には二つの表記がある。

「儺の話の星」には以下のことが記されていた。

 

竺なる古辞は神代紀に竺紫日向小門阿波岐原、竺紫日向高千穂霊峰(くじふるたけ)、継体紀に竺紫君石井がみえる。
“身一つにして、面四つあり“に対する配りである。
筑紫を地元では“ちくし“と云う。
竺人(ちくにん)の訛りと説かれている。
竺とは德人、或いは篤人、即ち西域の胡人、ならびにその文化伝統の総称であった。

(中略)

 筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が繋がれたのは雄略帝十七(四七三)年のことであるが、爾後(じご)この竺は現れない。

 

なんと、ここに「筑紫島の四つの面」があった。
では、竺紫とは、この状態のことを言うのだ。

Tikushi02_20230806100101

 

 (図 1 海面上昇シミュレーションシステムより)

玄界灘と有明海が繋がれた様子。 

  (☆→筑紫島の四つの面*玄界灘と有明海は繋がっていた

 

☆2 < 住吉神と「儺の国の星」 >

 

「儺の国の星」には

*有明海が脊振、耳納、四王寺を三つの海峡で仕切っていた時代
(もう一つの境は大根地山の麓の冷水峠を通るライン)

*“身一つにして、面四つあり“に対する配り

*竺紫日向小門阿波岐原、竺紫日向高千穂霊峰(くじふるたけ)

 とある。

 

では、それらも当然、この地にあるものになるだろう。

 

竺紫日向小門阿波岐原で生まれたのは住吉神

彼、高良神=饒速日命は全ての神である。

住吉の元宮の現人神社がある那珂川には、それが全てあった。

☆→神話の舞台 ~神話の真相 7~

☆→高天原と底津岩根 ~神話の真相 8~

 

竺紫日向高千穂霊峰(くじふるたけ)は、今の脊振のこと。

☆→久士布流多気*櫛布留岳*くしふる岳 ~二柱の竜~

 

天原=高天原はそれらを内包した、脊振山系。

これが建日向豊久士比泥別。

図1に関わる、高良神、神功皇后の過ごした地。

それが儺国であり、邪馬台国。

 

☆3  < 神話の地 >

 

神話の神はすべて二柱に集約されるので、神話もすべて彼らの話となる。

白日別は、高良大社の高良神=住吉=磯神=石上

=伊勢神(古来、磯宮=磯神)=天照

☆高良は古来、物部の領地=祖神、饒速日命

 

☆豊日別は宗像大社の市杵島姫命=御炊屋姫=豊受(大神神社の御炊社は豊受)

 彼女は饒速日の后。

 高良神が饒速日命なので、彼女は神功皇后となる。

 

☆建日別は彼らが対峙していた羽白熊鷲=熊襲=命尽くし神。

☆→筑紫島の四つの面 3 ~建日別・熊襲の正体~

 

☆建日向豊久士比泥別は、

豊=豊姫=神功皇后

櫛日=櫛玉饒速日命

泥は根=神、貴人の意味

で、脊振のある地、住吉の元宮現人神社がある儺国=那珂川

☆→筑紫島の四つの面 4 ~建日向豊久士比泥別~


そこが高天原。

☆→筑紫島の四つの面 終章 6 ~筑紫の日向~

 

彼らはそこにおられた。
だから「天孫降臨の地」であり、イザナギの禊の地であり、住吉・日吉の元宮があるのだ。

 

 

*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。

 

 

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2023年8月 7日 (月)

筑紫島の四つの面*玄界灘と有明海は繋がっていた

☆1 筑紫島の四つの面
☆2 「儺の国の星」の針摺
☆3 針摺の「文化財出土状況」
☆4 「儺の国の星」による当時の様子
☆5 三の地名と三島神

 

************

☆1 < 筑紫島の四つの面 >

以前書いた「筑紫島の四つの面」。

神功皇后と高良神、羽白熊鷲に関するものであった。

 

ゆえにその神話は彼らの伝承から派生したもの。

☆→筑紫島と四つの面 5 ~饒速日命と神功皇后の伝承地~

今回は、上の記事の加筆になる。
 (文化財総覧webを教えてもらったので)
Tikushi02_20230806100101(図1 画像は海面上昇シュミレーションシステム)

 

彼らのいた時代はこの状態であり、ゆえに「筑紫島の四つの面」が成り立つ。

 

☆2 < 「儺の国の星」の針摺 >

真鍋大覚氏の「儺の国の星」には「玄界灘と有明海は針摺で繋がれていた」との表記がある。
針摺の語源について、かの本にはこうある。

近東の胡語、Khaliteハリチは狭い水路。
針摺は昔の瀬戸。注野の面影ない。

 

図1の紫の丸で囲った場所が針摺と言われる場所。

 

Hariduri01

(図2 針摺 画像はYAMAP 
左は拡大 Google map)

 

図1の紫丸の針摺を拡大したのが図2。
ここは現在陸地であり、川が途切れている。

災害などによる堆積物で分断されたのだと想像できるだろう。



☆3 < 針摺の「文化財出土状況」 >

この場所の文化財出土を示したのが下のweb。
奈良文化財研究所による文化財総覧

(とても素晴らしいです!URL先もご覧ください)

Screenshot_202308061443332

ちょうどこの辺り、文化財が出土していない。

古代、二つの海は繋がっていたのだ。

 

☆4 <「儺の国の星」による当時の様子 >

それは物部の末裔である真鍋大覚氏が、那珂川に伝わる伝承、古代の様子を表した本である。
昭和57年 福岡県筑紫郡那珂川町発行。(今の那珂川市)
☆広報 なかがわに連載されていた。


「儺の国の星」には、

☆筑紫の東島と西島が針摺で繋がれたのは雄略帝十七(四七三年)のことである

「拾遺 P71」

とあった。(針摺 図4の1)

 

それまでは北の玄海灘と有明海は繋がれていた。

かの本には神功皇后は200~269年としており、自分も200年前後と考えている。

彼女の時代には海があったのだ。
(彼女は魏志倭人伝の卑弥呼)

この辺りにかかわる言葉を「儺の国の星」からまとめた。

 

☆昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、南から有明海の荒穂、即ち滔々たる海流が貫いて居た。
東なるを宇佐島と云い、西なるを天原と言った。

「拾遺 P82」

(基山の麓、荒穂神社の荒穂はこれなのかも。西の天原=高天原)

 

☆有明海が脊振、耳納、四王寺を三つの海峡で仕切っていた時代でもあった。

「儺の国の星 P76」

(図1の状況。脊振が左の山地・建日向豊久士比泥別。耳納に高良山・高良大社・白日別。四王寺は豊日別・紫丸の右上辺り)

Screenshot_202308061009452

(図3 地図はYAMAP)

☆東を宇佐の島=右佐(うさの)島

西を天原=左佐(きさの)島=高来島

「儺の国の星」より

(建日向豊久士比泥別=高天原)

 

☆この瀬戸の北の出口に西の儺国(図3 現人神社のある一帯。今の那珂川ほか)

東の蚊田の国があった。現在の糟屋郡がこれである。

「儺の国の星 p28」

Screenshot_202308061501512
(図4 地図はGoogle map)
☆そとも

”そとも”は自らの故郷を中央にして、視界の及ばざる彼方を云い表す詞であった。(中略)

那珂川では、"そとも"は背振の南、肥前有明海の沿岸を指してきた。

(儺国と書かれてある場所が那珂川・那珂川の人にとっての”そとも”は図4の緑丸辺り)

「拾遺 P195」

 

(以下、数字は図4の場所)

 

2 水城

(神功皇后の伝承にある)”やす”とは今の水城辺りの古称であった。ここが有明海と玄界灘の分水嶺であった。

夜須は昔は御笠と三原を合した郡であった。

「拾遺 P236」

 

有明海と玄界灘の瀬高を見合わせて船を往来する水城を、筑紫野人々は”からとぼし”といった。

”から”は胡語のKhalyakカリヤック、”とほ”は同じくdawダウ(Dohaドーハ)であり、いずれも北語南語で船を云う。(中略)

”し”は司人、すなわち運営管理する官人であり、達人であり、又その役所の総称であった。

「拾遺 P121」

 

3 四王寺山は潮路見(しおじみ)山、或いは四明山と呼ばれた。

麓の別院が安楽寺であり、今の天満宮になっている。

今から千八百年前の昔はここで南と北の潮目の満ち引きを見る安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。

筑後久留米高良大社の絵巻物がこれを語る。

「儺の国の星 P151」

 

4 雑餉隈(ざっしょのくま)下記にて

 

5 塩原村。

昔は昼夜の別なく塩焼く海人が御明(みあかし)をも見守り見巡る番をかねていたのである。

「儺の国の星 P51」
(熊野道祖神社)

 

昔、玄海灘と有明海が舟行の水路で繋ってた頃、今の対馬小路(つしましょうじ)から五十川(ごじつがわ)、雑餉隈(ざっしょのくま 図4の4)、水城(2)を経て太宰府に至る間、石籠(いづろ)あるいは石堂、即ち灯台が置かれて潮の満ち引きにあわせて夜間も航行を可能ならしめていた。

今の井尻なる部落名は石籠のあったところの一つと語られている。

「儺の国の星 P51」

 

6 朝倉

葦舟を”あさくら”といった。”あさつま”とは干潟の古名である。(中略)

朝倉を魏志倭人伝は巴里(はり)国と記す。

”あさくら”も”はり”も高瀬船の元祖の名であった。

「拾遺 P161」

夜須郡夜須村に三並(みつなみ・今はみなみ)なる郡名が残る。かつて有明海の潮が蘆木(あしき)川を遡って、この地まで き上がっていたのである。

「儺の国の星 P152」

 

7 筑後三原は、玄界灘と有明海の潮の往来が洲を作り上げて(略)

應神帝(二七〇~三一二)から仁徳帝(三一三~三九九)の御宇には、まだ三原の潟にはPapyrus japonicaパラピラス ヤポニカと名をつけるべき背高い葭(あし)が生い茂っていた。「拾遺 P160」

 

8 高良

胡語でKhalaitカライトは、疏水であり、運河であり、海峡である。

(拾遺 P121)

 

9 御井(高良山の麓)

10 大善寺玉垂宮

11 三潴の三島神社(魂須霊 4 筑後の饒速日命

(この辺り三島神社が多数。高良神と神功皇后が祭神)

 

12 瀬高(磯上物部神社の地)

魂須霊 4 筑後の饒速日命

 

13 三池 

 

14 肥前高来口ノ津は、有明海の潮待ちの港(佐賀県高木瀬か)

”くち”口は門戸の意であるが、本来は”かし”即ち船のことであった「拾遺 P88」

 

博多湾から有明海まで三笠(2)三原(7)から御井(9)・三潴・みずま(11)をへて三池(13)と揃った郡名が並ぶ。

(中略)”三”は上下あるいは子午・・・(中略)の方位を言った。

即ち、三笠から御井三潴を経て三池に至る一日行程の舟航は、海上駅逓(えきてい)の氏族が往来していたことになるのである。

「儺の国の星 P151」

(三は子午。銀河をうましのみち・子午線に沿ってほぼ南北に流れるからともあった。三の字で星神を意味するのかも)*1

 

その他

御笠=針摺のことか(図4の1)

*大野城のことかも

銀河、即ち天の川を極東では”ありなれ”とよび神功記の頃まで用をなした。(中略)

”あり”は大にして濶なる状(さま)であり、”なれ”とは藍にして青、緑にして翠なる色を云った。(中略)

かつて玄界灘と有明海は針摺瀬戸で繋がっていた。神功記以後に御笠なる郡名が置かれたが、以前は大野(おおぬ)であった。これは”ありなれ”の倭約に外ならなかった。

「拾遺 P87」

 

 

玄界灘と有明海は繋がれていた。

図4は今の標高5mの場所を結んでいる。

ここと上の表記が一致する。

 

瀬高、瀬戸、高木瀬、三のつく地名などは、当時の状況を物語っているのだ。

「儺の国の星」は、千八百年経てなお、正確に伝えている。

那珂川の物部の一族が語り継いできたのだと思うと胸が熱くなる。

 

これらの状況は、神功皇后と高良神の伝承地とも一致する。

彼らの時代、海は繋がっていたのだ。


☆5 < 三の地名と三島神 >

*1 にある三の数字は、彼らを意味する。

彼らは三島神だ。


オリオンを三蓋星、三並、三組星と呼び、水師船軍の守護神とした。(中略)

三島星、或いは三諸星とよんだはるかな昔があった。

”しま”或いは”すま”は船人の渇きを癒す湧水井泉のあるところであった。(中略)

三嶋溝杙の家系である、三嶋も溝 もオリオンの古称であった。

”そくい”は栄井即ち、砂漠の中のオアシスのことであった。

「儺の国の星 P153」
三島神は高良神であり、白日別。
その后の神功皇后は豊日別。
よって「筑紫島の四つの面」には彼らが関わる。

 

 

 

( つづく )

 

 

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2023年7月13日 (木)

久士布流多気*櫛布留岳*脊振山の神  ~二柱の竜~

続きです。

☆→二柱の神 ~神の名*饒速日命と御炊屋姫

二柱は「龍」であった。

饒速日命だけでなく、御炊屋姫も竜王として祀られている。

彼女は市杵島姫命であり、弁財天。

奈良の「八大龍王弁財天」は彼女。

☆神の系譜*豊受大神編 1 ~御炊屋姫~

 

「龍神」は彼らだ。(←後の記事に)

 

*             

 

福岡市の南の佐賀との境にある、脊振山(せふりやま)。
奇なるものが振ったと伝承がある。

振った二龍は「饒速日命と御炊屋姫」。

 

この二柱の竜が「降ってきた所」。
それが神話の久士布流多気。

 

 

< 脊振の神 >

 

一昔前までは、脊振と言えば脊振山系を指した。
脊振山単体では、上宮嶽、弁天山、廣瀧山と呼ばれていた。

 

脊振の伝承を俯瞰してみると一つに繋がる。

Screenshot_202307121740142

 (背振神社 上宮)

 

脊振山の名の由来からいくつか。
(他の由来も下記を元にしたもののはず)

 

☆1 「脊振神社蔵古書」には、

「肥前の国に霊峰あり、国鎮岳と号す。絶頂に霊穴あり。二竜出現して脊を振う時、山動き地震う。故に脊振山と号す」

☆2 貝原益軒の「筑前風土記」
「古、弁財天百済よりここに来り給う時、乗り給ひし馬の脊振りたる故に脊振山と名付けたり」

 

☆3 「脊振山縁起」の乙護法善神

脊振山積翠教寺 修学院 サイト)「脊振山縁起」より要約 (←素敵なイラストつき!)

「天竺の王子が他界。

大王がインドのお坊様の龍樹菩薩に頼み探してもらうと、龍馬に乗って脊振山に飛来し御法神となっている彼を見つける。

彼を追って后(弁財天)と共にやって来た大王は、脊振千坊の守護神に。

大王が下宮の「不動明王」となる。
后が上宮の「弁財天」。
王子は中宮の乙護法善神として祀られる」


*実際の下社には宗像三神(市杵島姫命である弁財天)が祀られている。

 

☆1 二竜が背を振った。

☆2 弁財天を乗せた馬が背を振った。

☆3 乙護法善神が竜馬に乗って飛来。後に不動明王と弁財天がくる。

 

 

これらは同じことを示唆している。
三柱となっているのは、☆3だけ。


☆3では、

乙護法善神(毘沙門天)、大王(不動明王)、弁財天が天竺から竜馬に乗ってやってきて脊振に振った(降った)

 

脊振に振った竜は「二柱」。
なのに三柱の神?

 

 

< 脊振山系の弁財天と毘沙門天と不動明王 >

 

☆3の伝承が三柱であるのは、仏教の影響を強く受けているからだ。

山域は古来から霊山とされ、修験道の聖地として多くの寺が建てられた。
それ故に「彼ら」は、仏教の神(インド神)とされている。

今でも脊振山と、山系の一つの九千部山には彼らが祀られている。


*九千部山の神

Screenshot_202307121740202

(九千部山山頂の祠)

 

九千部山(くせんぶやま)の山頂の祠には、不動明王と弁財天が祀られている。
二柱が夫婦と、☆3の脊振山縁起にあるからだ。

だが、インド神話では夫婦ではない。

 

不動明王はシヴァ神にあたる。
その妻はたくさん(100人?)。

一方の弁財天の夫はブラフマー。

 

しかし、日本神話を通すと繋がる。
不動明王は、日本では大黒天。

大黒天は大国主神と習合していた。

彼は饒速日命であった。
弁財天である市杵島姫命は、彼の后であった御炊屋姫。

→☆神*総まとめ

 

不動明王=大黒天=大国主神=饒速日命

弁財天=市杵島姫命=御炊屋姫

 

だから九千部では「不動明王と弁財天」が夫婦とされているのだ。

インド神話の「夫婦」とされる二人ではないが、日本神話では辻褄が合う。

 

この違いの元は、「元々祀られていた二柱の神」が後にそれぞれ習合されたから。
習合された神の由来は「天竺」。

それ故に、天竺から来たことになっている。

 

*脊振山の神

一方、脊振山には弁財天と毘沙門天が祀られている。

☆1~☆2の伝承はこれを示す。


山頂の上宮と下宮には、弁財天(市杵島姫命)。

乙護法善神は、少し下った場所にあるタニシ仏。
この神が毘沙門天。

Screenshot_202307121740252

(タニシ仏)

 

脊振に振った二竜とはこの二柱であり、彼らへと繋がる。

 

< 高良神と毘沙門天 >

この辺りで「毘沙門天」と言えば、高良神。

高良神は自ら、「毘沙門天として祀れ」と告げたとされる。

彼は毘沙門天と習合されたのだ。

Screenshot_202307121740292

(高良大社 奥宮)

Screenshot_202307121740293
(奥宮にある「毘沙門天」の繋がり)
Screenshot_202307121740352
(高良山山中  高隆寺跡の案内板)
*高良神は国を鎮める神。
だから脊振は国鎮岳でもあった。

 

高良山山頂には、後に毘沙門城が造られ、今でも毘沙門山として通る。

 

Screenshot_202307121740392(高良山)

 

しかし、毘沙門天の妻は吉祥天。

 

脊振に二柱だけが祀られていると齟齬が生じる。

回避する納得できる理由。

それが、不動明王と弁財天が夫婦であり、毘沙門天がその子供として、脊振に振った神が三柱であると、☆3ではされたのだ。

 

高良は物部の領地であり、祖神・饒速日命を祀る宮。

☆→高良玉垂宮神秘書 2 ~高良神は物部の祖神~)アメブロの記事

 

脊振山系の神、不動明王、毘沙門天は共に饒速日命を示唆していた。

饒速日命は櫛玉饒速日命。

また石上神宮の布留神。

久士布流多気とは、彼を示す名だ。

 

 

もう一柱の弁財天。

習合されている日本神話の神は市杵島姫命。

 

 

< 弁財天と御炊屋姫と神功皇后 >

弁財天は市杵島姫命。

かの神は、御炊屋姫。

→☆神*総まとめ

 

高良の神が毘沙門天、不動明王に繋がる饒速日命。
その后の御炊屋姫が弁財天。

 

「もともとの二柱」とは、毘沙門天弁財天と習合されたこの者たちであった。

他に誰も繋がらない。

 

高良の伝承、高良玉垂宮神秘書には、高良神(住吉神)の后は神功皇后とある。

彼女もまた、「習合」されていた。

 

彼が饒速日命であり、彼女がその后であるので繋がっている。

 

脊振山頂の市杵島姫命(弁財天)は、
「神功皇后が三韓征伐の折りに、戦勝を祈願して祀った」とある。

しかし彼女は、「祀られている神」自身。

伝承では、祀った者自身が祀られた神となっているのだ。



彼らがここに祀られている。
それ故にこの地が「建日向豊久士比泥別」。

豊は、豊姫。(高良大社の本殿に合祀)
これが御炊屋姫であり、神功皇后。

久士は、櫛玉饒速日命の「櫛」であり、高良神(住吉神)。

久士布流多気の「久士」だ。

 

彼らがこの地に「振った二竜」。

 

***

 

日本神話の内でも、仏教が入った時でも、習合され他の名になってしまった彼ら。

 

でも、それは信仰心ゆえのこと。

溶けあっても彼らは彼ら。

 

弁財天は御炊屋姫であり、豊受大神。

毘沙門天は饒速日命であり、天照大神。

様々な名で呼ばれても、彼らの魂は一つ。

 

脊振も英彦山も宝満山も若杉も、1000年以上続く信仰がなければ、今のような「霊山」とはなり得ない。

彼らが祈りを捧げ、大切に守ってきたお山だからこそ、ここが「クシフル岳」。

 

 

最後に。
山友さんのおかげで乙護法善神と脊振の神が繋がった。

佐賀の修験道に関わりある地を巡って、一日60キロでも踏破する彼女。

凄すぎる~!

御信仰のたまものだと思う。

ありがとう!

 

 

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